第三章 撫子 2
あの夏、同じように務めを投げうって山辺へ移り住む京人は少なくなかった。
門田の稲が色づき始める八月の半ばには、跡見のすぐ北の茂岡に、典鋳正の紀鹿人が市原王をお連れして移ってきた。
鹿人の娘の小鹿の郎女がごく若い頃に王族の夫を通わせて儲けた市原王は、色白く、牛のように穏やかそうな目をしたのんびりとした文人だった。
鹿人が挨拶がてらに開いた月見の宴の席で、市原王はかなり年下の私に気さくに話しかけてきた。
「のう佐保の若子よ、そなた、かの山上憶良が編んだ『類聚歌林』を全巻持っておるというのはまことかの?」
「まことですとも。大夫から形見にと譲られました」
「何と、じきじきにか! 若子、ぜひぜひ写させてたもれ。代わりに人麻呂や赤人の歌集を貸して進ぜよう」
「それは有難い」
市原王は文人らしく多くの巻子を有していた。
私は『歌林』と引き換えに借り受けては写し、自らも真似て拵えては、足繁く茂岡を訊ねて拙い歌を披露した。
その間に恋の真似事を覚えた。
私に初めの恋歌の手ほどきをしたのは小鹿の郎女だった。
母ほども年上ながら、膚は白く、唇は赤く、キラキラとよく動く目をした美しい郎女に私は夢中になった。大和の古い氏族の郎女たちは心のままに夫を通わせる。私と小鹿の郎女との忍び合いを、茂岡の紀氏は誰もが気づいていたようだったが、誰一人として余計な口は挟んでこなかった。
だが、じきに秋が訪れると、歌と恋の愉しい季節は一時期中断された。
坂上の叔母が庄の実りの検分にやってきて、われら兄妹に帳簿の見方を学ばせるようにと稲公に命じていったのだ。
「よいか若子ら、郎女もな。これを機に庄の営み方を覚えよ。おいおいは己らの財産を己らで管理できるようにな」
稲公に教わって庄の営み方を覚えているあいだに秋はたちまち過ぎ、軒から長い垂氷の伸びる山辺の冬が訪れた。雪の多い冬で、おいそれと茂岡には通えなくなってしまった。
私は小鹿の郎女が恋しくてならなかった。
郎女のあの軟らかな躰や、筑紫へ向かう舟の中で嗅いだ船底の水垢のような臭いが――……まだ恋を知らぬ少年の頃、私はその思いを恋だと信じていた。
山辺の冬が続く間中、小鹿の郎女にあてた恋歌を拵え続けていた私は、初瀬川の瀬音が雪解け水で高くなるころ、早咲きの山桜の一枝を手にして茂岡へ向かうことにした。
夕ではなく朝にしたのは、私なりの誠意のつもりだった。自分が郎女に求めているのは閨での戯れだけではないと、誰よりも自分自身に言い聞かせたかったのかもしれない。
あの朝のことはよく覚えている。
春とは言えまだ肌寒い朝で、左手を流れる川の面から霧が立ち昇っていた。空にも淡い雲が掛かって、左手の尾根の向こうから淡淡とした朝日が射していた。
じきに初瀬川へ注ぐ渓流にかかった板橋が見え始める頃、陽の向きから歌声が聴こえてきた。
明るく高い歌声だった。
つられて目を向けると、斑に雪を残した斜面のあちこちに、橡染めの衣を纏って籠を背負った娘たちが幾人も蹲っているのが見えた。
それは菜摘の娘たちだった。
堀串を振るって若菜の根を掘り起こしながら歌っている。
歌はどれも鄙びていた。二、三人が声を合わせている。
聞くともなしに聞きながら馬を進めていたとき、ふと聞き覚えのある言葉が耳に入ってきた。
籠よ み籠もち ふくしもよ
みぶくし持ちて この岡に
菜摘ます児 家聞かな 名告らさね
そらみつ
大和の国は おしなべて
我こそ居れ
しきなべて
我こそいませ 我こそは 告らめ 家をも名をも
それは大泊瀬稚武の帝と呼ばれる上代の帝の御歌だった。
他の唄はみな幾人かの娘が声を揃えているのに、その歌だけはたった独りの娘が歌っていた。
巧みな歌だったわけではない。
細く、高く、慄きがちな、ぎこちない謡いぶりだ。
それが思いもかけず、聞き覚えのある古歌を歌っている。
私はふと心惹かれて馬を止めた。
そしてあの娘を見た。
娘は同輩から独り離れて、渓流の辺の榛の根元に蹲っていた。
橡染めの衣の筒袖をまくり、泥付きの野草を半ばほど収めた籠を背負って、手甲を嵌めた掌で羊歯の葉をかき分けていた。
馬を鮪麻呂に預けて背の後ろまで歩み寄っても娘は手を止めなかった。
霧を浴びた黒髪の面に水の雫が溜まっていた。
その髪は他のどの娘よりも艶やかに見えたが、結い目を飾る花はなかった。臀の膨らみに食い込む草鞋履きの足の踵が落ちて傷んだ李のように赤くひび割れていた。私はしばらく躊躇ってから声をかけた。
「……蕨を捜しているのか?」
途端、娘が歌を止め、腕を止めて顔を向けてきた。
顎の尖った褐色の面のなかで双眸だけがまじまじと見開かれていた。その眼に明瞭な怯えを察して私は狼狽えた。
「怖じるな。私は跡見の庄に住まう者だ。そなたの名は何という?」
娘は身じろぎ一つせずに私を見上げていたが、そのうちに堀串を地面に突き刺し、濡れた朽葉の上に両手をついて深々と平伏した。
「殿よ、平にお赦しを」
「何を赦せというのだ? 私は名を――」
そこまで言いかけてはっと思い出した。
小鹿の郎女に気を付けるよう言い含められていたことだ。
高位の男が下位の女の名を訊ねるということは、すなわち夜伽を申し付けるという意味だ。
気づいてしまうなり私は狼狽えた。
「や、ち、違う。違うぞ? 私は名をな、ただ名だけを訊ねているのだ!」
弁明しながら、私は自分のあまりの狼狽えぶりが恥ずかしくなった。
娘は目を見開き、呆気にとられたように私を見上げていたが、じきに堪えかねたように声を立てて笑った。
「なんだ、一角の殿かと思えば、ほんの若子ではないか!」
「若子ではないぞ! 私は一角の男だ」
「そうか、一角の男よ。相すまぬ」娘はまだクックッと笑いながら謝った。私はむきになって訊ねた。
「それで、名は何というのだ」
「……ここでは京女と呼ばれている。こんな雛の女が京女など、京から来た若子には奇異に思われようが」
娘は気恥ずかしそうに応えて目を逸らしてしまった。
「いや、奇異には思わぬが」
「そうか?」
「そうだ。そなたは涼しく品の良い面差しをしているし、手なども美しい」
小鹿の郎女に教えられた通りの誉め言葉を口にすると、
「……そうか?」
娘が疑わしそうに手甲をかけた皸だらけの掌を並べて広げて見せた。私は慌てて言い添えた。
「ええと、ああー―形が美しいのだ! それに髪だ。髪も美しい。まさに翠の黒髪だ。京女というからには、京の生まれなのか?」
「ああ」
「それが何故この鄙に」
「父が疫病で死んだからだ」
娘があっさりと答えた。
私は慌てて訊ねた。
「その――歌は父御に習ったのか? 先ほどの、初瀬稚武の帝の御歌は」
「そうだ。父はの、式部省の史生を務めていたのだ。よう字を書く父であった」
京女はそういって誇らしそうに笑った。
「その父御は――」と、私は馬へと戻りがてら訊ねた。「父御はそなたを何と呼んでいた? 京に住んでいた頃から京女ではおかしかろう」
訊ねると娘は一瞬眉をよせ、目を逸らして小声で答えた。
「――撫子と」
「撫子」
私が繰り返しても娘はもう顔を上げなかった。
ほつれた黒髪の被さる貝殻のような耳がほころび始めた桜のような薄紅色に染まっていた。
撫子と次に会ったのは山吹の咲いた朝だった。
私は歩きたいからと馬も鮪麻呂も拒んで、朝から徒歩で茂岡に向かっていた。
撫子はまた籠を背負って斜面を登ろうとしていた。
「撫子! 何処へ行くのだ?」
声をかけると娘は目を見開き、ぱっと花が咲いたように笑いながら駆け下りてきた。
「楮を集めにな。跡見の若子はまた文使いか?」
「ああ――まあ、そうだ」
私があいまいに答えると、撫子は目を輝かせながら訊ねてきた。
「やはり恋文か?」
「あ、ああ。まあ」
「そうか――」と、撫子はどことなくうっとりとした声で言い、一転して声を潜めて訊ねてきた。
「なあ、若子は茂岡の郎女を見たことがあるのか?」
「え?」
私は相手が何を言っているのかよく分からなかった。戸惑いの表情を何だと思ったのか、撫子はハッとしたように目を見開き、申し訳なさそうに訊ねた。
「よもや秘密の使いだったのか? しかし、跡見にいらせられる大伴の氏上大人が茂岡の郎女の元に足しげくお通いだというのは、初瀬ではもはや知らぬ者はないぞ?」
「そ、そうなのか?」
「そうだ。よもや氏上大人は秘めているおつもりだったのか? 若子も難儀だのう。忍ぶ必要もないのに、人目を忍んで恋文のお使いとは!」
ここへ至って私はようやくに悟った。
撫子は目の前にいる私が大伴の氏上だとは思っていないのだ。
「大伴の氏上大人は大層な美男だしのう。茂岡の郎女もさぞやお美しいのであろうな」
撫子が好ましそうに言った。
きっと稲公を氏上だと勘違いしているのだ。そう思うなりにわかに腹が立った。
「――撫子」
「なんだ?」
「私は――」
そこまで口にしかけて、私はハッとした。
いま撫子が気さくに口をきくのは、私が単なる文使いだと信じているからだ。
氏上だと打ち明けてしまったら、きっと拝賀に来る族人のようにひれ伏してしまうだろう。
そう気づくなり寂しくなった。
「どうした?」
「いや」
私は笑って首を横に振った。
「なんでもない。急がねば。撫子、またな」
できるだけ気軽に告げると、撫子も笑って応えた。「ああ。またな」
またあの娘に逢えるのだ――そう思うだけで私の心は弾んだ。撫子がこの世にいると思うだけで、あらゆるものがほんの少しだけ明るさを増しているように思われた。




