第三章 撫子 1
父の死から二年後に山上前筑前守が死んだ――私の追想は死者ばかりだ。
死人たちは記憶のなかで活き活きと跳ね回っている。
私はときどき、この生ぬるい濁り水のなかで生き永らえている己よりも、あの死者たちのほうこそが、真の生を生きているのではないかという思いにかられる。
前筑前守の訃報を報せに来た子息は、『類聚歌林』の一から六までを櫃に納めて佐保へと届けてくれた。
「こちらを佐保の若子にと、亡父の遺言でございました」
「それは忝い」
美しい装丁の巻七と異なり、薄茶の穀紙にびっしりと文字の並んだ巻子で、帳簿の裏に書きつけた紙片が糊で継いであったり、処々に朱筆で直しが入っていたりした。
そういえばこの年には遣唐大使が発ったのだった。
大使に任じられたのは私には母方の祖父の同母弟にあたる多治比大成だった。
私と書持と留女の母は、大伴ではなく多治比の一族である。同族の正妻である大郎女とのあいだに五十を過ぎても嫡子を設けられなかった父が、特別に許されて迎えた若い二人目の正妻との子だ。
母は私たち三人を産みはしたものの、佐保の邸にはついに馴染めず、留女を産んですぐに多治比の一族の元へ戻ってしまった。
そういう来歴であるから、父が生きている間は、この母方の一族とはいささか疎遠だったが、死後にはそれなりの付き合いをするようになっていた。そのためもあってか、このときの遣唐には古麻呂も留学生として選ばれていた。
古麻呂は本当に優秀な男だった。文武に秀で、人望もあり、いかにも益荒男の裔らしい果断な気性をしていた。父はなぜあの古麻呂を氏上に選ばなかったのだろうかと、私はしばしば怨むように思ったものだった。
この年に発った遣唐大使は二年後に戻ってきた。多治比大成も無事だったし、古麻呂も無事だった。使者たちの帰還を祝う宴の席で、しきりと人の口にのぼる二つの名があった。
下道真備と玄昉法師だ。
下道真備のほうは従八位下の留学生で、養老の頃に入唐して、実に十八年も唐に住まっていたのだという。
「宮での官位は低いが、生地の吉備ではいまだ密かに「大君」と呼ばれる大豪族の生まれらしくてな」と、負けん気の強い古麻呂が口惜しげに説明した。「唐から山ほど珍奇な文物を持ち帰って宮へと献じるつもりらしい」
「聞いたか、真備の朝臣は百三十もの唐の巻物を持ち帰ってきたのだそうな!」
「共にお戻りなさった玄昉法師というのは、唐では大層な高僧で、唐の皇帝から紫の袈裟を賜ってきたのだそうな!
献上の大行列が催される夏の末が近づくころには、佐保川で布を洗う水仕女たちまでが口々に噂していた。
同じ年の秋から、大宰府で疫病が流行り始めた。
疫病は疱瘡だった。
冬が来る頃には京でもちらほらと死者が出始めた。
佐保の邸で初めの病人が出たのは十一月の末のことだった。
まず倒れたのは大婆刀事に仕える老尼の理願だ。
私はすぐに坂上の叔母に助けを求めた。
叔母の采配はこのときも手早かった。
「大婆刀事は大事をとって有馬へでも湯治に行かせろ。若子らと留女もできればどこか庄へ逃れよ。佐保の邸は洛中に近すぎる故な」
この勧めに従うか従わないか、私は非常に迷った。
しかし、春になっても一向に死者が減らず、佐保山で骸を焼く煙が毎日のように見られるようになるとさすがに焦りを感じ、夏の初めにとうとう逃れることに決めた。
行き先は初瀬川の川上に所有する跡見の庄だ。
邸にも人出は要るから、父の代から使える家人の鮪麻呂と、妹の世話をする婢を何人か連れていくだけにした。
洛中は酷い有様だった。道端に骸が転がって、艶々と肥えた鴉どもが瑞々しい死肉を啄んでいた。市に近い八条の辻では、堀端の柳の根元に人が集まって黒馬の前足を斬り落とそうとしていた。疫病除けの呪いであるらしかった。
「のう兄上よ」と、牛車に揺られながら同母弟が沈鬱な声で囁いた。「われらの門にまだ牛はおるのかのう」
「書持、今は夏じゃ。牛は冬にしか――」
私はそこまで口にしかけてから、同乗している同母妹のことを思い出した。
「留女、牛というのはな、御門を護る魔除けの土牛のことだ」
「ああ、追儺の牛か。疫病を追うまじないであろう?」
同母妹が落ち着いた声で答えると書持が目を剥いた。
「留女よう知っておるのう!」
すると同母妹は得意そうに笑った。「祭祀のことは知っている。この留女はそのうち大伴の斎姫となるのだもの」
同母妹の声は堂々としていた。
目元が涼しくすっきりとした細面は叔母とは全く似ていないのに、その口ぶりの誇り高さはまさに叔母そのものだった。
私たちは一度斑鳩へ向かい、舟を雇って初瀬川を海石榴市まで遡った。
上代から「八十の巷」と謡われる海石榴市の賑わいは噂以上だった。
入口に一対の唾を植えた石垣の内に入ると、庄からの調を蓄えるために設けてある館になぜか稲公がいた。
私はあきれ果てて訊ねた。
「――稲公よ、公事はいかがした?」
その頃、稲公は衛門大尉を務めていた。氏の名にふさわしく日夜御門を護っているはずの武官がなぜこんな山辺にいるのか?
亡き父が族人を叱責するときの表情を思い出しながら咎めると、稲公は愉快そうに声を立てて笑った。
「おお何と、若子は氏上大人らしくなったのう! 大人よ、御咎めは尤もながら、宮仕えも命があってこそだ。疫病神が退散するまで私は跡見にいると決めたのだ」




