第三十章 相聞 2
於比良女が邸を辞してすぐに、私は書房へ戻って留女からの文を探し出すと、小ぶりの木簡の表を削ぎ、同母妹の筆跡を真似て三首の恋歌を書きつけた。
けだしくも人の中言聞かせかもここだく待てど君が決まさぬ
なかなかに絶ゆしと言はばかくばかり息の緒にして我恋ひめやも
思ふらむ人にあらなくにねもころに心尽くして恋ふる我かも
書き上げた三首の木簡を赤い緒で束ね、前庭の隅に咲き初めていた撫子の花を添えてから、私は越から伴ってきた家人の羽鳥羽咋を呼び、この文を左京の前の兵部卿の邸に届けるようにと命じた。
「いいか、必ず密かに届けろ。誰に問われても私の名は口にしてはならぬ。佐保からだとだけ門番に預け、今宵逢うところを報せてくれと奥に伝えるのだ」
水仕女から何某かの噂が伝わっていたのか、羽咋は心得顔でにやつき、
「相分かり申した。必ずや色よい応えを持ってまいります」と、言い置いて馳せていった。
私は先ほどの水仕女を呼んで、人目に立たぬ女物の被布と菅笠を調えさせた。
主屋の内で羽咋を待ち受けるうちに驟雨が走った。
幾百の蹄が屋根板を叩くような雨音が過ぎたあとで廊へ出ると、項垂れた百合の花弁の付け根に雨水が溜まっていた。反り返る花弁の端に溜まった雫が光を映して燦めく様にふと見惚れているころ、濡れ鼠の羽咋が揚々と戻ってきた。
「守よ、応えをいただけました!」
「よくやったな。どこで逢うと?」
訊ねると若い越人は歌を諳んじるような表情を浮かべ、託宣のように重々しく告げた。
「今宵陽の落ちる前に皇子の陵墓にて」
「……皇子の? 本当にそういわれたのか?」
「一言もたがわず」
そのとき私の脳裏に浮かんでいたのは和束川の上の吾が安積皇子の陵墓だった。
だが、すぐ、寧楽にも今一つの皇子の陵墓があることを思い出した。
亡父が筑紫へ下る以前に幼くして身罷られた君の初めの皇子、藤原の大后の生み給うた基皇子の陵墓である。
基皇子の陵墓は奈良坂を上った先の尾根近くにあった。
羽咋が応えをもたらしてすぐに、私は薄黄に青い花紋を散らした羅の被布と笠を被って背戸から屋敷を出た。
二条大路が佐保川と交わる板橋の袂まで来たところで、供をしてきた羽咋を佐保の邸へと行かせる。
そのあとは独りの道行となった。
やがて坂路が険しさを増し、木々が深さを増す頃、斜め左から夏草に埋もれた石段が始まっているのが見えた。
茫々と草の生い茂る階を慎重に上ると、不意に目の前が開けて眩い赤い陽が射した。
そこは四方を木々に縁取られた方形の平地だった。
芒や茅が一面に生い茂る更地の真中に築山が盛られて、四隅に奇怪な生き物を象る石柱が据えられていた。
人の躰に狐とも狗ともつかない獣の頭を具えた像の傍らで私は待った。
祈るような心地で待つうちに、自分が本当に同母妹に成り代わって、一度は命の縁とまで思いつめた相手を待受けているような気がしてきた。
やがて四方から響いていた蝉の声が衰える頃、これも菅笠を被って宵闇に溶け込むような青灰色の衣を纏った男が夏草を分けてきた。
「……――留女!」
よく聞き知った男の声が同母妹の名を呼んだ。「一人か? この山路を供もつれずに来たのか? 相変わらず無茶なことを――」
笠を外しながら駆け寄ってきたのは奈良麻呂どのだった。
私がおもむろに被り物を外すと、まじまじと眼を見開いてから舌を鳴らした。
「家持、そなたか!」
「ああ私だ。汝妹でなくてすまんな。あれとこんなところで忍びあっていたとは知らなかったぞ」
「昔の話だ。ごく稀にな。何の用だ? そなたのような世捨て人が妙に手の込んだ真似をしおって」
「私がいつ世を捨てた?」
「とうに捨てきっていよう。太上天皇が亡くなられてこの方、そなたはまるで魂の半ばを陵墓に埋めてしまったようだ」
「喪とはそういうものであろう。哀しみつくせばそのうちに心も蘇る」
「そういうものか?」
「そういうものだ。――そちらこそ、逢瀬には、さすがに喪服は脱いでくるのだな?」
将棋の駒を慎重に進めるような心地で告げると、奈良麻呂どのが片眉をあげ、極まりの悪そうな声音で応えた。
「宵闇に白は目立つ」
「さもあろう。この氏上にも告げずに氏の子らを唆すつもりなら、池主の屋敷に集う夜にも脱いでおくべきだったのでは?」
唯一に近い切り札を叩きつけるように問うなり、奈良麻呂どのが不愉快そうに眉をしかめた。
「あの戯けが口を割ったのか?」
「割らんよ。不審すぎる客人の訪れを妻女が訝しんだのだ。そなたらの陰謀はあまりにも粗すぎるのでは?」
「言ってくれるではないか!」
奈良麻呂どの喉を鳴らして笑った。「何をどこまで知っているのだ?」
「何もどこまでも知らんよ。知らんうちに氏の子らが宮に弓引こうとしているらしいことのほかはな」
「宮に、ではない。藤仲郎の邸にだ」
「田村の宮には大后と女帝がいらせられる」
「女帝を害するつもりはない。高御座を退いていただくだけだ」
「そのあとをどうする。道祖王を坐らせるのか?」
「後に坐らせるのは誰でもよい」と、奈良麻呂どのは本当にどうでもよさそうに言った。「道祖王でいいのなら、二世、三世の王族などいくらでもいよう」
「それを橘の邸に招いて帝を名乗らせるのか?」
「ああ。仲麻呂がやっていることを、われらが真似て悪いことはあるまい」
奈良麻呂どのは笑いながら応じ、私の顔を正面からのぞき込んできた。
「どうだ、世に戻る気にはなったか?」
「私は世を捨ててなどいない」
苦々しく言い返すと、奈良麻呂どのは真顔になった。
「いいや、そなたは捨てている。――家持、そなたは変わったやつだ。敏いのにときどき怖ろしく愚かだ。そして人の死を嘆きすぎる。私はなあ、昔あの恭仁の宮で安積皇子が亡くなったあと、嘆きすぎたそなたがそのまま死んでしまわないかと気がかりだったのだよ」
奈良麻呂どのの声には混じりけなしの親しみが含まれていた。
「――奈良麻呂どの」
「なんだ?」
「兵士はどこから集める? 授刀衛八〇〇に相対するのに、なまなかな数でははなから相手になるまい」
「おお、益荒男の上らしいお言葉がでてきたな!」
奈良麻呂どのは嬉しそうに笑った。
「河内の秦の一族から四〇〇ばかりが来るはずだ。あの一族は銭で雇えるのだ」
「貿易のうえで亡き大臣に受けた恩義もあろう」
「ま、むろんそれもろう。あとは鎮守将軍が不破の関で集める手はずになっている」
「――やはり古麻呂も関わっていたのか」
「まあな」
「攻撃は同時に行うのか?」
「ああ」
奈良麻呂どのは得意そうに答えた。「鎮守将軍は関を抑えたら寧楽へ早馬を走らせる。それがついたら、我々はすぐに河内の兵士を集めて田村の邸を囲む」
「着いたらすぐに――か?」
「その通りだ。なかなかの企てだろう?」
胸を張って答える奈良麻呂どのの応えを聞くうちに、私は殆ど憐れみに近い悲哀が湧き上がってくるのを感じた。
――結局のところ、橘の家は貿易で栄えていたのであって、兵馬のことなど露ほども分かってはいないのだ。
河内と不破から同時に攻撃を仕掛けようと、武装した八〇〇人の授刀衛に守られた田村宮が容易く破れるとは思えない。大宮のほうが何らかの手段で諸国兵士を呼集してしまえば、叛徒はたやすく鎮められてしまうはずだ。
――古麻呂が立てている企ては、本当はそうではないはずだ。
まず不破の関で反乱がおこったことが仲麻呂卿に伝わるのを待ち、授刀衛の多くがそちらの鎮圧に向かっている隙に、河内からの兵士によって田村の宮を攻める――そういう手はずだと考えているはずだ。奈良麻呂どのだって当然そう考えている――と、あの敏すぎる古麻呂は信じているのだろう。
それに古麻呂は自分自身が大和の大伴の一族を――私や古慈悲抜きでも――すべて呼び集められると信じているのかもしれない。
私はそのとき不意に、池主がなぜ私とのあいだの手紙をすべて焼き捨てようとしたのか、その理由に思い至った。
あれは謀反を起こす前に、私との関わりが深かった証を消しておこうと思ったのだ。
交遊よ、今からでも私を加えるつもりはないのか?
河内の兵は私が率いてやる。
そう口にしようとしたとき、
「なあ家持」
奈良麻呂どのが気さくな声音で呼び、何を思ったか掌で私の目元を覆ってきた。
「なにをする」
「案ずるな。われらのほうには鎮守将軍がいる。そなたはしばらく目を瞑っていろ」
「何も見ず、何も聞かずにいろということか?」
「そうだ。今まで通りただ悲しんでいろ。そして、新たな君が定まったら、そのときにはひれ伏してあの歌の巻を捧げればいい」
「われわれの万葉集を?」
「そうだ」
「誰に捧げよと?」
「誰でもいいだろう。亡き太上天皇のお声がかりで編まれた歌集を、清らかな内の兵たる大伴の氏上が捧げるのだ。高御座につくのが木偶であろうと、人はみな認めるであろうよ」
奈良麻呂どのはそう言って笑った。
私は木偶になどひれ伏したくなかった。
亡き君に捧げるために集めた青人草の情を、木偶になど捧げたくはなかった。




