第三十章 相聞 1
陽を透かす葵の花弁の縁が縮れはじめる六月の半ばに私は兵部大輔に上がり、古麻呂が左大弁を兼ねたまま鎮守将軍に任じられた。
奈良麻呂どのは兵部卿から右大弁に転じた。
翌々日、暑気あたりと称して宮へ上がらず書房に籠っていた午後、廊へ出た折に、橡染めの袖なしを纏って乾いた髪をひとつに束ねた水仕女が、砌の際に植えられた百合の列の向こうから「もうし」と声を掛けてきた。
何かと眼を向けるなり打たれたようにひざまずいてしまう。
私は苦笑した。
「そう畏まらずともよい。どうした。何か用か?」
「そのう――」と、まだ若そうな水仕女は口ごもりぎみに応えた。「厨に女子が来ております」
「女子? どのような女子だ」
「侍女のような粗末な身なりで、婢もつれずに自分で葛籠を抱えております。背戸が開け放しになっていたところから勝手に入って、殿にこっそり御目にかかりたいと。身の証にとこのような武具を持ってまいりました」
水仕女の差し出してきたのは漆塗りの鞘におさめられた蕨手の短刀だった。
柄に巻かれた赤い緒に見覚えはなかったが、鞘の口の錆びかけた金具は何処かで見たような気もした。私はしばらく躊躇ってから命じた。
「その女とやら殿にあげよ。――人に見られぬようにな」
潜めた声で命じると水仕女は心得顔で頷き、待つほどもなく、くすんだ浅葱の被布を被って葛籠を抱えた女を伴ってきた。
袴の裾を脛巾で括って草鞋を履いた身形こそ粗末だが、葛籠を抱えるほっそりとした手の形が美しかった。何者か、と誰何しようとしたとき、女がその手で被布を外した。
私は呆気にとられた。
「なんだ、於比良女ではないか! なぜ背戸から入る?」
女は池主の妻だった。
何やら深刻な顔をしている。
私は慌てて腰をかがめて訊ねた。
「どうした。池主に何かあったのか?」
於比良女は一瞬ためらってから、意を決したように頷いて葛籠を差し出してきた。「まずこの中身をお検めくだされ。どうかこっそりと」
於比良女の口調は真剣そのものだった。
私は北の廊の一隅を簾で仕切った房へとあげ、先ほどの水仕女に命じて水の椀と冷えた瓜を運ばせた。
「まあ食え。休んで少し落ち着け」
「ありがたくいただきます」
於比良女が椀に口をつけるのを待ってから葛籠の蓋を上げると、中には反故紙や木簡が一杯に詰まっていた。
上の一つを手に取って見れば、越の頃に私が池主に返した相聞めかした返歌がしたためられていた。
私は拍子抜けた。
「私の昔の文ではないか」
「――ああ、 やはり大人の御筆跡か」
於比良女が安堵とも失望ともつかない声を漏らし、唇を引き結んで私を見据えてきた。「先だって家の婢が持って参ったのだ。殿が焚きつけにするようにと下されたが、これは恋文ではないかと」
「婢が文字を解するのか?」
「よく文使いをするため、読めずとも一つ二つの形は分かるらしい。―-どうもあれは秘めた恋歌ではないかと勘繰ったようなのだ」
「なるほど」
私は微苦笑した。「それで頭に角を立てかけたが、はてこれは氏上大人の筆跡ではと気づいた――ということか? 念のため、私はそなたの愛しい夫と臥所をともにしたことはないぞ?」
揶揄い交じりに笑いかけると、於比良女は呆れたように笑ったが、すぐに表情を引き締めて訊ねてきた。
「なあ氏上大人よ、これが大人の御筆跡であるなら、夫はなぜ燃やせと命じたのであろうか?」
「それは――」
私は応えに窮した。
於比良女はしばらく黙り込んでいたが、じきに腹を決めたように頷くと、私を見上げて口早に話し始めた。
「実は、春からこのかた家によく夜の客人があったのだ」
「夜の?」
「ああ。みな宵闇に紛れてくる上に、集ったら婢一人傍に寄せ付けない客たちだ」
「秘密めかしているな。みな男だったのか?」
「そうだ。しかも――」と、於比良女は悔しげに続けた。「しかも、みな私の夫を池主、池主と呼びつけにするのだ」
「従六位上の官人を呼びつけにできるとなると、みな五位以上の大夫たちか。――誰か声を聞き知る者はなかったのか?」
「あいにくとだれも。しかし、ひとつ気にかかることはあった」
「なんだ?」
「一人はつねに喪服だった。五月二日を過ぎても」
太上天皇への服喪は一年である。
その期間を過ぎても白の裳衣を纏うとすれば、よほど主に深く心を寄せていた者か、さもなければ今年に入って近しい肉親を亡くした者かである。
そのどちらにも当てはまる人物を私は一人だけ思いついた。
「なあ氏上大人よ――」
於比良女が怯えた声で呼んだ。
「井出で橘の大臣が身まかられたのは、今年の正月であったよな?」
「於比良女、そなたは敏いの。さすがにあの池主の妻だ」
私は手もなく慄く心を押さえて笑んでみせた。「だが、それ以上の詮索は控えよ。あとはこの氏上が何とかするゆえ」




