第二十九章 陵
君は遺詔で数ある孫王がたの中から道祖王を選ばれ、新たな日嗣に立てよと云い残された。
この指名は誰にも思いがけなかった。
道祖王は、浄御原の帝の御子である新田部皇子のお子であり、かつて女帝を呪詛した咎で三嶋へ流されていたあの不運な塩焼王の同母弟で、このときは従五位上の位で大膳大夫を務めていた。
二世、三世の王ならば他にもいないことはないのに、わざわざこの大膳大夫が選ばれた理由は、当の道祖王を含めて誰にも分らなかった。
とはいえ、遺詔は遺詔である。前の大膳大夫は本当に東宮へ居を移して「日嗣の君」と呼ばれることになった。
その直後の五月十五日に、衛門督を務める古慈悲が、内豎の淡海三船を相手に宮を謗った咎で衛士府に戒められた。
白麻の単衣の喪姿のまま邸に変事を報せに来たのは古慈悲の若い嫡子の弟麻呂だった。聞けば譜代の家人たちが激高し、今にも武具をとって衛士府を襲いかねない勢いなのだという。
私は慌てて古慈悲の邸へ急ぎ、陸奥で黄金の出た年に君の下された言祝ぎを伝え、大君の内の兵たる氏の長老が解き放たれぬはずがない、あたうる限りの手を尽くすからゆめゆめ短慮に走るなと諭した。
手を尽くすとは請け合ったものの、中衛舎人に固められた衛士府の獄から古慈悲を救い出す手立ては私には何もなかった。
市原王を通じて藤原の大后に嘆願の訴状を送った他には為す術もなく祈るうちに、古慈悲は――おそらくは大后の庶妹にあたる正妻の尽力によって――縄目を解かれた。
私は一族を諫めるための長歌を拵え、ちょうど咲き初めていた橘の枝を添えて、国内の主だった族人の家へと贈った。
――正直なところ、私はこの頃もう、名ばかりの益荒男の氏上であることに草臥れ始めていた。亡き君がそう呼んでくださったように、背負う名のない一介の歌びととして穏やかに生きて死にたいと、そんなことばかりを思うようになっていた。
君の御身体は五月十九日に大宮から運び出された。
青い衣笠を差し掛けられた棺の御輿は、道々に並んだ伶人が奏する笛の音に送られて二条大路を東へ下っていった。
私は白い喪服に身を正して門前からその様を見送った。
燦々と眩い夏の陽が乾いた大路を照らしていた。御遺骸は佐保山で火葬に付され、先の太上天皇や、幼い頃に亡くなられた君の初めの皇子――この皇子の母親は藤原の大后だった――と同じく佐保の山稜に葬られた。
長らく君に近侍していた左衛士督と左兵衛卒の鴨の某が陵墓の守を申し出て認められ、各々に中衛舎人を十人ずつ付けられた。
――中衛舎人。
仲麻呂卿の権勢は確固たる武力に支えられていた。
秋の初めにはそれまで兵部省が管理していた女帝の親衛隊である四百の授刀舎人の名簿が中衛府に移され、同じく四百の中衛舎人と合わせて、八百の武装の舎人が仲麻呂卿に随うことになった。
数を増やした南家の走狗はいかなる権限によるものなのか、警護と称して宮内のいかなる場所にも顔を出した。衛士と門部に混じって朱雀門にも居並ぶようになると、氏の名のために今まで大目に見られていた私の剣も咎められた。
「兵部少輔は文官であろう。武具を帯びての参内は赦されぬ」
そうと云われれば確かにその通りではあった。
私はいっそ参内を見合わせようかとも思いかけたが、せめて君の喪が明けるまではと思い直し、剣を佐保の邸の留女に預けた。
太上天皇への服喪は一年である。
まだその喪も明けやらぬ天平勝宝九年の正月六日、橘の大臣が井手の邸で息を引き取られた。
二月後に不運な道祖王が日嗣を廃された。
太上天皇の喪中であるにも関わらず宮内で女嬬や侍童と戯れて身を慎まなかったという理由で前の大膳大夫が東宮を追われた五日後、仲麻呂卿の亡き子息の寡婦を妻として田村邸に住まっていた大炊王が日嗣に立てられた。
おそらくは最後の障壁であったのだろう橘の大臣が没した後は、仲麻呂卿はもはや己の爪と牙を隠そうともしなくなった。
双六の升に石を進めるように大炊王を日嗣に立てた翌月、君の喪の明けた二日後の五月四日には、大宮を改修するためと称して女帝を田村邸に招き、二十日には紫微内相なる令外の官職を名乗って、六衛府と諸国の軍団から兵士を徴発する権限を一手に握った。
六月には氏上が族人を集めることが禁じられ、京の内を二十以上の馬を連ねて駆けることも禁じられた。
官人が保持できる馬の数も官位に応じて厳しく取り締まられるようになったため、洛中の屋敷の馬を邸や庄へと分散せざるを得なくなった。
いっそ一頭、二頭はこの頃式部大丞にまで昇進していた池主にでも譲ろうかと思って文をやると、秣にも事欠く貧窮ゆえにと軽口めかして断り、詫びのつもりか宅の庭で採れたという走りの毛桃をぶら下げて訪ねてきた。
柔らかな繊毛に覆われた薄紅色の果実は触れると生暖かく、齧りつけば甘く温い果汁が溢れだした。
廊に並んで胡座して滋味を味わっていたとき、池主が越のころに送った文をみなしばらく返して欲しいと言い出した。
「今このようなご時世ですと何をするのも気づまりですからな。仏の信徒に倣って夏安居がてら、私も自分の歌の集でも編んでみようかと思いまして」
「ああ、それはいい。編んだら私にも読ませてくれ」
越こいたころ池主と交わした歌はかなり多くあった。
戯れに恋歌めかしてやり取りをしていたものも多い。
読みながら思い出話を交わすうちにたちまちに時間が過ぎた。
池主は珍しく朗らかに笑い、残った桃は帥大納言の墓前に供えて欲しいと言い置いて帰っていった。
――あれがあのとき何を思っていたのかと、私は今も時折もどかしく思う。
池主よ。お前は生になんの不足があったのだ?
紅葉を眺め、酒を飲み、仕事に精だし、桃を食い、妻や子の待つ家に帰り、ときおり交遊と歌の話をし――その生になんの不足があったというのだ?
あれはもう答えない。
死者たちはつねに何も答えてはくれないのだ。




