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永遠の春  作者: 真魚
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第二十八章 羅侯羅 1

難波津で防人の歌を知ったときから、私は今までより広くあちこちから歌を集めたいと志すようになった。上代の帝や后たちのおおらかな古歌や、今の世の大宮人の雅やかな歌ばかりではなく、もっとさまざまな者たちの悲喜を知ってみたくなったのだ。

 遠国から京へやってきた労役(えだち)の民も、宴席に侍る遊行婦女(あそびめ)も、寺の周りで食を乞う浮浪人(うかれ)たちでさえも、この大伴の氏上と同じ悲しみと喜びを抱いて生きているのだろうか? それならばその悲喜を知りたい。

 そんな思いを抱いてあちこちで歌を聞いては書き記しているうちに、私はいつのまにかもう一つの名で呼ばれ始めていた。

 --佐保の歌人(うたびと)どの、と。



夏が過ぎて実りの季節が廻ってくる頃、君が病を得られた。

女帝は父君のためにと大赦を発し、年の暮れまで一切の殺生を禁ずるとの勅を下された。


 翌月の二十八日に、秋から兵部卿を務めることになった奈良麻呂どのが宅で宴を開いた。

招かれたのは私を含めて旧い知り人ばかりで、この頃は井手の邸のほうに籠りがちになっていらせられた大臣も久々にお顔を見せられた。

大臣は老いていた。

愕くほど老いてみえた。

もともと瘠せていらした躰が枯れ枝のように細くなり、白髪も疎らになり、あれほどしゃんと伸びていた背筋も海老のように曲がって、立ち上がるにも坐るにも、気に入りの家人の佐味宮守に援けられていた。

そしてひたすらに昔話をされた。

 いつ果てるともしれない大臣の話をみなは微笑みながら聞いていたが、あまりにも話が古くなるとはかばかしい相槌が打てなくなってしまった。

 大臣はじきに語り飽きたのか、佐味宮守の手を借りて立ち上がると、手ずから帳を巻き上げられた。

 外は雪だった。水気を含んだ冷たい風が酒に火照った頬を撫で、どことなく淀んでいた空気をひと吹きで爽やかにした。

「雪は清々しいのう――」

 大臣がお目を細めて空を仰がれ、私たちを省みて眉根をよせられた。

「な、あれはいつだったかのう? ほれ、いつぞや公卿がみなで西院の雪を掃いたことがあったであろう? 勿体なくも姫御子が御酒をくだされて――あれはいつだったかのう……」

 大臣はしばらく幸せそうに考え込んでいらしたが、じきにふと眉間に皴をよせ、はーッと長いため息をつかれた。

「姫御子といえば、今の帝はのう――」

 大臣がそこまで口にしたとき、奈良麻呂どのが強張った顔で膝を浮かせた。

 大臣は気づかず、お目を外へと向けられたまま悲しそうに呟かれた。

「独り身の姫御子を高御座に着け続けるのは、儂には好ましからぬよ。花の盛りに夫の一人も持たずに老いられるなど――」

 大臣のお声は小さかったが、その場の誰にも聞こえた。

 奈良麻呂どのが蒼褪めていた。

 私はあの高円の歌を思い出した。


 ――可惜(あたら)しき君が老ゆらく惜しも――


あの宴で大臣が口になされた言葉は、言い逃れようもないほど明確な女帝への誹謗だった。

ごく近しい者ばかりを集めていたはずなのに、どこからか話が漏れ、中衛舎人が今日明日にも橘の邸を囲むのではないかと噂された。

翌月の初め、大臣は自ら職を辞され、井出の別邸に隠棲なされた。



 大臣の辞職で橘家の危難がひととき去った二月の末、君が久々に寺からお出ましになり、鑑真和上を伴って河内の智識寺へ行幸なさると仰せられた。

女帝と大后も中衛舎人を護衛にして共に赴かれることになった。

河内の寺を詣でた後に主君がたは難波の離宮へ御移りになられるという。


奈良麻呂どのはこの行幸をまたとない失地回復の好機と考えた。

橘の家は大臣の代から難波の堀江の北に貿易用の広大な館を構えている。その館を美々しく飾り上げ、贅を尽くした宴の支度をして君を招こうとしたのだ。


宴は三月の朔日に催された。

陽が落ちる頃、帆桁にも舟縁にも燈籠を飾った竜頭の御座舟を頭にした数隻の舟が差し向けられ、招きに応じた豪胆な、あるいは律儀な宮人たちを乗せて対岸へと漕いでいった。私は君と同舟した。屋形の軒から舳と艫へと渡された縄に紅絹を貼った燈籠が掛かって、青々とした榊の鬘を被った水夫(かこ)たちが朱塗りの櫂を繰りながら唄っていた。


むぐら延う 賎しきやども 大君の

 まさむと知らば 玉敷かましを


 若く見目好い者ばかりを集めたらしい水夫たちの歌声は晴れやかだった。

やがて近づいた北岸の館の前の船泊にも無数の燈火が並んで、焔を映した小波の底に五色の珠が沈んでいた。

「おお、なんと、この珠は翡翠か!?」

 官人の誰かが船べりから身を乗り出して叫んだ。

「あの青は瑠璃かの? 真珠と珊瑚もあるぞ!」

 水底には本物の珠が沈んでいた。

 五色の珠を透かした水面に燈火が映っていた。

 そのあまりの奢侈、あまりの煌びやかさに言葉を忘れて見入っていたとき、君が微かに憫笑され、憐れみとも呆れともつかない御声で呟かれた。

「まことに珠を敷いたか!」


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