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永遠の春  作者: 真魚
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第二十七章 東歌

 明けた天平勝宝六年の正月、女帝は東大寺に行幸なさり、境内に二万の燈火を点させた。


 同じ月の末、古麻呂が唐僧の鑑真和上を伴って帰ってきた。


 大使の藤原清河大夫の乗った第一船が嵐で難破し、後続の古麻呂たちだけが命からがら帰京を果たしたのだという。

 大使に代わって帝に首尾を奏上した古麻呂は、唐で新羅の使いより下座に着かされたことに怒って席次を替えさせた旨を持ち前のよく通る声で申し立てた。

 この奏上は女帝のお気に召したらしく、古麻呂は翌月従四位上の位のまま左大弁に任じられた。

同じ日に私は少納言の職を解かれて兵部少輔に転じた。

 位階の上では同じく従五位上に当たる官とはいえ、実務を担う省の次官(すけ)は太政官への足掛かりとなる少納言とは肌合いが異なる。有位の族人は次第に私の邸を遠ざかり、古慈悲や古麻呂のもとへ足しげく通うようになった。


 古麻呂の伴ってきた唐僧は東大寺に入って、僧尼に正式の戒律を授けるための壇を大仏殿の前に設けさせた。古麻呂の話では、この戒壇を設けて唐僧から受戒されることが君の長年の悲願であったのだという。

「太上天皇はその時々につねに気に入りの法師を侍らせて来られた。橘の栄えの始まりが玄昉法師ならば藤原が再び興ったのは行基大徳からよ。大伴の再興は鑑真和上とともに為されるはずだ」

 左大弁に任じられた後、邸の留女へと律儀に報せに訪れた古麻呂は滔々と語り、その時には氏上大人にも紫衣を纏って貰うぞ――と生真面目そのものの顔で告げた。


 古麻呂の目論見にたがわず、唐僧はすぐさま君の御心をとらえた。

鑑真和上が東大寺に戒壇を設けるなり、行基法師を亡くして以来籠もりがちだった薬師寺を出られ、念願の受戒を果たされた。

そこまではまさに古麻呂の読み通りだった。

しかし、そうして鑑真和上に傾倒したことで、君はますます現実(うつつ)(まつりごと)を疎んじ、一心に仏法修行だけにお心を向けるようになってしまわれた。


夏が過ぎて秋が至ると、君の御母君たる大皇大后が中宮で崩じられた。



明けた二月の初めに、私は兵部省の使として難波津へ赴くことになった。

東国から集められて筑紫へ送られる防人の交代に立ち会うためである。

朝まだきに宮を発ち、二条大路から直越(ひたごえ)の道を辿って生駒の尾根を越え、険しい坂路に閉口して馬を降りて下っていると、坂の彼方に微かに輝く何かが窺われた。


少輔(すけ)よ、水海(うみ)が見えますぞ!」

同じ道を通い馴れているらしい使部(つかいべ)が額に手を翳し、眦の皺を深めて笑いかけてきた。何か奇妙な懐かしさに駆られながら目を凝らすと、坂路の下で入日を浴びた水面が輝いているのだと判った。

「草香江か。なるほど押し照る海だな」

「おしてるとは何でございましょう?」

「何と言われてものう。草香江と云ったら押し照ると歌では決まっているのだ」

 馴染みの家人を相手にするような気安さで応えると、使部は逐一ほうほうと頷き、一体どんな歌があるのかと訊ねてきた。

憶えている限りの難波津の歌を諳んじながら坂を下るうちに、淡い潮の香を含んだ風が吹きつけてきた。

私はその匂いに、あの鮮やかな筑紫の春の陽射しを思い出した。


「美しゅうございますなあ」

 名も知らぬ使部がしみじみと感嘆した。

「ああ、美しいなあ」

 私も心底感嘆した。


私が着くのに先んじて、難波津にはすでに二千人の防人たちが集まっていた。

国ごとに部領使(ことづかい)に率いられてきた防人たちはみな若く、定めの通り五十本の羽根矢を納めた箙を負い、藤巻の弓を握って、帯には蕨手の短刀を吊るしていた。

名簿を検めると、かなり多くの者たちが「大伴部」の姓を持っていることが分かって、私はすっかり嬉しくなった。上代には大伴氏に仕える部民だった者たちだ。

主船司の館の前に整列した防人たちは、ここからの長い船旅に怯えてか、みな強張った顔をしていた。私は彼らのために餞別の歌を拵えて披露させた。

すると、その日の夜、部領使の一人が巨大な檜扇のような木簡の束を届けにきた。

「なんだこれは?」

「防人たちの歌でございます。少輔は歌をお好みのようなので」

「ほほう。防人たちの」

 私は意外の念に打たれた。

 東国と言ったら道の果て、天さかる遥かな鄙だ。そんな遠国で生まれ育った兵士たちがまさか歌を詠もうとは!

「そなたらが書き留めてやったのか?」

「そういう場合もありますが、大方はおのれで書きますよ」

「ほう――」

 私はますます意外に思いながら木簡をひとつとった。

 そして驚愕した。

「なんと、巧みな筆跡()ではないか! 歌もよく詠まれている。これが本当に東国の防人のこしらえた歌なのか?」

「防人に選ばれるのは上戸の若者ですからね。家に帰ればそれなりに奴も使いましょうし、官に文書も出しましょう。字は書きますよ。なかなか巧みに」

「ほう。ほうほう。本当に巧みなものだ。みな家に妻や子や老いた親を残してきているのだなあ――」

 防人たちの拵えた歌から滲む悲喜は、私自身のそれと何ら変わらないように思われた。私はすべての国からの歌を書き留め、ついでに古い木簡も捜させることにした。


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