第二十四章 珠の輿 2
越前での久米広縄との邂逅は私の心に一抹の不安を投じたものの、六年ぶりの帰京の歓びを打ち消しきるには至らなかった。
荷も多ければ妻も子も伴う復路は時間がかかった。
月の末にようよう恭仁の旧都に至ると、淡海から舟で送らせた荷が先に着いていた。輸送を託した貿易人は荷をみな泉橋寺の境内に運び込み、いつのまにか立ち並んでいた校倉造の庫を借りて納めていた。
私は幾何の銭と引き換えにそのまましばらく預けておくことにした。
「汝夫よ、いつまで預けるのだ?」と、妻が訪ねてきた。
「そうさの、いずれ洛中に新たな邸を築くまでかの」
「新たな邸を? では佐保の邸はどうなさるのだ?」
「もう五年主を欠いているのだ。今ごろは内の垣さえ苔生していようよ」
だが、その予想は外れた。
疎かにしていた墓所を詣でるような心地で奈良坂を下って向かうと、思いもかけず門前に一対の燈火が点って、糊の効いた衣を纏った鮪麻呂を頭に十数名の男らが待受けていたのだ。
「おお、実によく家人が残っているではないか!」
輿から降りた妻が愕きの声をあげ、かつての大嬢に戻ったかのように弾んだ声音で鮪麻呂に訊ねた。
「のう鮪よ、留女も来ているのか?」
「それはもう、奥においでですとも」
鮪麻呂は胸を張って答えた。
外の門の扉には以前と変わらず三対の錆びた青銅の鋲が埋まっていた。
内の門へとつづく階の左右にも篝火が点って、上に淡黄の裳衣を纏った同母妹が立っていた。艶のない髪をひとつに束ね、白い帯を胸高に結んだその丈高い姿はまるで神代の昔から永遠にその場所に立っていたかのようだった。
鮪麻呂が階下で頭を低め、恭しくもひび割れた大声で呼ばわった。
「斎姫よ、氏上がお帰りなされた!」
「――斎姫?」
妻が心許なげな声をあげた。
留女は鷹揚な仕草で頷き、片膝を折ってごく軽く頭を下げた。
「氏上大人よ、ようお戻りになられた」
「留女、そなたは多治比の邸にいるのではなかったのか?」
「兄上のおいでにならぬあいだはな。戻られたからには私も戻る」
留女は理の当然の如くに応え、晴れ晴れとした笑みを浮かべて妻を見やった。「大嬢も久しいな! 客地で子を得たのだったな? 若子をぜひ抱かせてくれ」
「吾子は車のなかだ。乳母が抱いている」
妻が強張った声で応え、なだらかな形の許す限り眉を吊り上げた。「それより留女、なぜそなたが斎姫と呼ばれているのだ?」
「それはむろん、御叔母から御真澄を譲られたからだが?」
「――偽りをいうな!」
「本当だ」留女は一転して沈んだ声で応えた。「御叔母はこのごろ病で寝付いた。今この邸で休まれている」
「なぜ越に――」
そこまで口にしたところで私は気づいた。
同じことに気付いたらしい妻が、ぐしゃりと顔を歪めて笑った。「母は報せぬよなあ」
「ああ」と、留女も泣きそうな顔で笑った。「氏上大人の大事な公事をつまらぬことで妨げるなと、そればかり仰せだった」
叔母は主屋の奥の間に帳を廻らせ、袷の衾に包まれて休んでいた。
枕に広がる髪は半ばが白く変わり、瞼が深く窪んで、微かに震える唇の内側がひび割れていた。枕辺に水を張った斎の土器が据えられ、薄紫の萩の小花が浮かべられていたが、常にその傍らにあった筈の白麻を被せた鏡の函は見当たらなかった。
「御叔母よ、大嬢が戻ったぞ?」
留女がはっとするほど柔らかな小声で呼ばわっても、叔母は目を開かなかった。微かに開いた唇から生臭い息が零れていた。
大嬢が顔を歪めて泣き始めた。
私は下瞼の肉がぴくぴくと震えるのを感じた。
そのとき、叔母がのろのろと瞼をあげ、私たちを見上げてうっすらと笑った。
「子らよ、案じるな。土牛は常世の国に行くよ――」
掠れた小声で呟いてから叔母は瞬きをし、苦しげに眉を顰めて咳込んだ。
「母よ、苦しいのか?」大嬢が泣き出しそうな声で叫んで顔を覗き込むと、叔母は咳込みながらも笑って首を振り、留女の手を借りて上体を起こした。
「大事ない。今懐かしい夢を見ていてなあ」
「夢?」
「ああ。――昔、家持と書持を伴って筑紫へ下ったことがあっただろう? その春の旅の夢だよ」
叔母は留女の手渡した椀から白湯を呑み、右手で幾度も胸元を撫でてから深い息を吐いた。
「まさか私が書持に死に遅れるとはなあ」
「御叔母はいくらでも遅れるとよい。いっそ私より遅れろ」
私は敢えて気安い声音を装って告げた。「なあ御叔母よ、私は越でなかなかの財を成したのだ」
「そうか。ようやったの」
「ゆえにな、京に新たな邸を築こうかと思っている」
「ほう」
「まことだぞ? 南家の田村の邸とやらより雅な邸にする。御叔母は珠で飾られた輿で新たな邸に移るのだ。きっと京人が噂をしよう。おお、あれを大伴の郎女が行く。あの美しい輿は坂上の郎女の輿だと。だからな、だから御叔母は長生きせねばならぬ――……」
話すうちに涙がこみあげてきた。
叔母は笑って痩せた手を伸ばすと、幼い子どもにするように私の頭を撫でた。




