第二十三章 李 2
同じ年の冬に池主が越前へ転任し、代わりの掾として久米広縄が下ってきた。
広縄は十一月の七日に主君の出された詔を伝えてきた。
「御言の仰せでは、国ごとに大寺と尼寺を建て、金光明経を写して七重の塔に納めよと命じたのが六年前だと云うのに、何処の国でも寺地さえ定めていないのはけしからぬと。そのため諸道に使を廻らせて土地を選び定め、才ある郡司に任を任せて、三年の間に塔と金堂と僧坊を必ず造り終えよと――憚りながら、こちらでは、すでに寺地を定めていらせられるのか?」
「いや、まだ縄も張っておらぬ」
君が国ごとの寺を築けと命じられたのは天平十三年の春である。
その頃の守は無論私ではなかったが、三年後にはまだ私である可能性が高い。
雪深い冬が明けるとすぐ、私は国府の寺の講師の恵行と図って新たな寺の縄張りを定め、射水の大領に造営を任せることにした。
造営の初めは材木の確保だった。
頂に雪を残した二上山の裾から古木が伐り出され、筏に組まれて射水川を下ってきた。俄作りの木津で丸太を引き上げ、泥濘のなかを牛馬に引かせて国府の北まで運ばせたあたりで種蒔きの季節が廻ってきた。
労役の民が各々の郷に帰ると国府の垣の周りもようやく静かになった。木を刈り尽くされて赤剥けた山裾に霧のような春雨がかかって、佐保川の東を思わせる柔らかな若草に被われた丘陵が現れた。
同じ頃に妻が孕んだ。
「きっと男児を産もうぞ。御佩を継ぐ男児を」
妻は未だ平らな腹に手を当てて祝詞のように繰り返し、二上山の社から能登の気太神宮に至るまで、国中の社に人を遣わせて幣帛を捧げさせた。
やがて奥の苑の李が淡雪のように軽い花を咲かせ、木の元に白い花弁が舞い散る頃、昔馴染みの田辺福麻呂が下ってきた。橘の家が越のあちこちに拓いた墾田を見回りがてら、閑地に新たな田を拓くべく、土地の管理を任せる田使を伴って来たのだ。
「久しいな大伴の大人よ。この男は田中多太麻呂と云うてな、唐の風水を学び尽くした占墾の名手なのだ」
福麻呂がそう紹介した田使は黒ずんだ衣に白い帯を締めた猛禽のような眼つきの小男だった。私の目には刀筆の吏というよりも山賊の頭のように見えた。
妻は京からの客人を歓んで宴の支度をさせたが、自らは連ならず、国府の巷に屋を構える遊行婦女の蒲生と左夫流児を同席させた。
蒲生は歌の才と機転で、左夫流児は見目の良さで土地ではよく知られた女たちである。
目に彩というには些か褪せた紅の裳を纏って実葛の汁で煌めく黒髪を一対の環の形に結ったその夜の左夫流児は常になく艶やかだった。
福麻呂はこれを傍らに侍らせて上機嫌で務めの話をした。
「橘の家の墾田のことは一任されているゆえな、この頃忙しなくてかなわぬ。知っての通り天平十五年の詔で新たな墾田は千万代までも伝えることが許されたであろう? 一位なら五百町まで、五位でも百町は認められる。大人も大和のちっぽけな庄に拘らず、この地にでも新たな墾田を拓いてはいかがか? 銭は寺から借りればよい。酒と肴を惜しまなければ人は幾らも集まる」
「あまり集めると養いきれんよ。先の地震と旱の折には家中の犬まで瘠せた」
「なに、家人ではないのだから年中養うことはないのだ。田植えと実入りの時季に要るだけ集めればよい」
「ではその者らを冬はどうさせる。辻で乞食の真似事をさせろというのか?」
眉を顰めて訊ねると、蒲生の酌で酒を舐めていた田使が鼻を鳴らして嗤った。「お若い守は仁君よの! 案じずとも労役は幾らもある。浮浪人どもにはその日の銭を与えてやればよいのだ」
田使はくつくつと息を吸い込むようにして嗤い、まるで泥水でも啜るような渋面のまま酒を干した。
館での宴の二日後に、私は福麻呂のもてなしのため、国府の北西の海辺に広がる布勢の水海へ遊覧に赴いた。
湊川の河口の遠大な潮入地が砂洲で海から切り離されて生じた水海は草香江を思わせた。
この日は呼べなかった左夫流児の代わりに若い遊行婦女の土師を同舟させた福麻呂が潮の香を含んだ東風に眼を細め、君が一人紫香楽へ赴かれたあとにも共に難波の宮に残られていた太上天皇と橘の大臣が宴席で交わしていたのだという諸歌を諳んじてみせた。
「大君が御舟で漕いでいらせられるなら堀江に珠を敷きたかったと御主人が嘆くと、姫御子はお笑いになられてな。珠を敷かぬのを悔いるならまた重ねて通おうと仰せられた。御主人は太上天皇を天女のように崇めていらせられるのだ」
福麻呂がいかにも慕わしげに語ると、田使が鼻を鳴らし、「齢七十の天女か!」と小声で吐き捨てた。
福麻呂の云うように、橘の大臣は先の太上天皇を主君と思い定めて混じりけなしの忠心を捧げていらせられた。
福麻呂たちが墾田の下見を終えて京へ帰っていった翌月、その太上天皇が崩御なされた。 鈴を鳴らして馳せてきた駅馬使が諸人はみな白の喪服を纏いようにとの詔を伝え、以後四十九日の間、国司は七日毎に禊をし、国内の諸寺の僧尼を招いて経を読ませるようにと命じていった。
国府の北の寺はまだ金堂さえ仕上がっていないため、僧たちは垣の内の堂に招くことになった。読経のたびにすべての寺に施しをしなければならないと大目が嘆いていた。
同じ年の末に息子の永主が生まれた。




