第二十三章 李 1
書持の碑を詣でた帰京の折、寧楽はまだ辛うじて過日の面影をとどめていた。
藤原の諸家が氏神を祀る春日の森を残して殆どの木々が切倒され、佐保川の河原から炊ぎの煙が昇って、外の門の台に立てば川向うに七重の塔の骨組と例の巨大な盧遮那仏の塑像が見えたものの、洛中へ入れば青草を擦りつけて染めた狩衣を纏って菖蒲の花を髪挿した郎子たちが、箙と弓を追い、猟犬の群れを随えて馬を連ねていたし、五月の節句の翌日に多治比の邸を訪ねれば、花見がてら氏上への拝賀に参じたらしい多治比の輩が、青と白の花菖蒲の群れ咲く池に面した廊で酒盛りに興じていた。
主の多治比家主は私の訪れを喜び、青い菖蒲を連ねた鬘を手ずから被せてくれた。
「よう来たな家持よ。留女も乙撫子も息災だぞ。菖蒲の宴に益荒男の上が来たって騎射を競わぬ法はない。若子らが的場に出ているゆえ、ひとつ手本を見せてくれ」
「花鬘をして弓を引くのは難しいのう」
ほろ酔い加減の家主に導かれて主屋の北東の的場へ向かうと、色とりどりの狩衣を纏った若者たちが足結の鈴を鳴らしながら騎射に興じていた。
中でもひときわ目を引いたのは涼やかな浅葱色の衣をつけた栗駒の騎手だった。
北の築地に沿って並んだ七つの的を六つまで射抜いて馬を返すなり、若者たちがやんやの喝采をあげて迎えた。
「あれは鷹主か?」
「いかにも吾が異母弟よ。益荒男の伴にもあれほどの騎手はなかなかなかろう? 宮内の南苑の宴での騎手にも選ばれたのだぞ」
家主が得意げに応じたとき、喝采が内へと届いたのか、西の対の屋の廊に掛かる葦の簾が分かれて女たちが姿を現した。
小ぶりな髻の根に真珠の緒を巻き、薄青の羅を貼った団扇を手にした小柄な家刀自の傍らに白い喪服を纏った同母妹の姿もあった。
その右に寄り添うすらりとした娘子の姿に私は眼を奪われた。
薄黄の衣に鮮やかな緑の裳を重ね、白い羅の領巾を垂らして、垂髪の頭に白い花鬘を被った立ち姿は遠目にも端麗だった。
多治比の一族にあれほど美しい娘があっただろうかと眼を凝らしていると、家主が私の肩に腕を回して囁いてきた。
「どうだ、見違えたか? あの乙撫子はいずれ傾国に育とう。何処で見初めたものやら、南家の若郎子の一人が十三になったら妾に寄越せと今から急かしてくる」
「久須麻呂どのか?」
「ああなんだ、そなたも承知の上か! この頃橘の権勢にも陰りが見えるからな。藤原と縁を結ぶのは悪くなかろうが――南家で構わぬのか? そなたは北家の右大弁とも懇意であったろう。二心があからさまに過ぎると橘の庇護さえ危うくなるぞ」
「あれの先行きは妹に任せてあるのだ」
「留女にか。あれにも何か良い縁はないかの? たしかにちっとばかり年はいっているが、こうしてみればまだまだ美しいのだし、このままにしておくのは惜しい気がするのだが――」
家主が馬でも見定めるように云って額に手を翳した。
つられて見やると鷹主が馬首を廻らせて西の廊の前へと駆け、前栽の花越しに女たちを仰いで晴れやかに呼ばわるところだった。
「郎女がたよ言祝ぎを! 勝ち馬に花をくだされ!
郎女がた――と呼んではいるものの、女たちの中で花鬘を被るのは乙撫子一人だった。
娘は一瞬たじろいだように左右を見回してから、小さな頭をすっともたげて端近に歩み寄ると、微風に揺れる撫子の茎越しに手を伸ばして花鬘を鷹主に渡した。
――もし乙撫子が心のままに夫を選ぶなら、あるいはあの若い多治比鷹主を選んだのではないかと思うことがある。
しかし、今の代にそのような気ままは許されない。
二月余りの京暮らしを終えてまた越へと下る折、私は坂上の邸から大嬢を引き取ることにした。
生まれてこの方佐保の内を離れたことのなかったのだろう大嬢は道中何を眼にしても童女のように珍しがった。
そして、思いもかけないほどよく鄙の国司の館に馴染んだ。
主屋の廊の砌の際には百合が植えられ、奥の苑には李が植えられて、対の屋からは坂上から随ってきた手練れの侍女たちが機を織りながら唄う声が聴こえるようになった。
秋の初め、妻は小ぶりな髻の根に藁を編んだ鬘を巻き、身に馴れた生成り色の裳衣を纏って廊に立ち、庭先に筵を拡げて苧麻の茎を叩く水仕女たちの務めを眺めていた。
淡い産毛に煙る頬を薄紅色に染め、円らな眼を細めた姿からは、陽を浴びて熟れた李のような充足が感じられた。




