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永遠の春  作者: 真魚
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第二十二章 黄泉平坂 2

 着任から半月ばかりのあいだに下僚の館の宴に招かれ続け、早々に越の訛りに馴染んでくる頃、池主が今年の戸籍の大帳を届けに京へ発っていった。


 馴染みの身内を欠いた鄙での公事は多忙を極めた。

 帳簿を検め、田を見回り、用水の諍いを聞き届ける役回りは(たどころ)での雑用と同じだったものの、何しろ広さが異なる。

 馴れない務めに疲弊して池主の不在をつくづくと惜しんでいた九月の半ば、国庁の門前に京からの早馬が駆けつけてきた。


 公事の証の駅鈴をつけずに馳せてきた遣いは佐保で使っている家人の韓人だった。

前殿の朱塗りの柱のあいだで待受けていた韓人は、私の姿を見とめるなり背筋を正し、低く絞り出すような声音で告げた。

「――大人よ、書持さまが亡くなられました」


「え?」


私は咄嗟に何を聞いたのかが判らなかった。

「死んだ? 書持が? 何故あれが死ぬ? 夏には全く健やかに恭任まで見送りに来ていたではないか!」

「秋口に急な病を得られたのです。越にお報せしようと幾度もお勧めしましたが、公事に多忙な兄上を内の事で煩わすなと終いまで仰せられて――」

 韓人が堪えかねたように喉を鳴らし、口の両端を歪めて咽び泣き始めた。

 主人を亡くした益荒男の激しい慟哭だった。



 全く人目を憚らない韓人の慟哭のために、私が身内を亡くしたことは日を経ずして国庁の誰もが知ることとなった。

 一度京へ戻ってはどうかと介は勧めてきたが、池主を出した直後に私まで任国を離れるのは躊躇われた。


「韓人よ、弔いはすでに済んでいるのだな?」

「斎の君の采配で佐保の野で躯を焼き、奥つ城の岩室に葬りました」

「碑は建てたのか?」

「田辺の文人がしたためてくだされました」

「では私が戻る間でもなかろう。公事を放り出して戻ったら、書持が黄泉から返って叱りに来よう」

「ああ、いかにもお叱りになりそうですね」と、韓人が涙を拭いながら笑った。「奥の郎女に何かお言葉はあるありますか?」

 問われて初めて私は留女が邸に独りになってしまうことに気づいた。

「そうさの――あれは洛中の多治比の氏上の邸にやるのがいいかもしれぬ。喪が明けたら乙撫子を連れて移るよう言伝てくれ」

 すると韓人は眉をしかめた。

「大伴の郎女が他族の邸に厄介になるですか?」

「他族とはいえ、我らには母の同母兄の邸だ。夫を持てる年頃の女子をあの邸に独り住まわせるのは気が進まぬ。佐保の郎女は気ままに男を通わせる遊行女のようだなどと、世人が戯けた噂を立てようからな」

「名負いの氏の家の姫が好む夫を通わせて何の障りがありましょう! 奥の郎女が御移りになったら家中は誰が見るのですか?」

「庄の帳簿や倉の鍵はあれが持って出ればよかろう。屋の繕いは家人に任せる。鮪麻呂を頭に立てよ」

「鮪の翁を?」韓人が不服そうに応じた。「主を欠いた屋は荒みますぞ。人も次々去るかもしれません」

「そなたも去るのか?」

「大人よ、何を仰せられます!」韓人は顔を真っ赤にして怒った。「私は待つに決まっていましょうが! 奥つ城の碑が苔生そうと、氏上大人の御戻りを待つに決まっております!」

「心強いの。ではよく待っておれ」

 揶揄い交じりに応じると韓人ははっとしたように眼を見開き、悔しげに鼻を鳴らしてから、顎先に指を寄せ、躊躇いがちな声音で訊ねてきた。「――大人も郎女も母御とは長らくお逢いではなかったのでしょう? 郎女は肯われるでしょうか?」

「肯うか否かは関わりない。家長が命じているのだ」

 私が軽い苛立ちを込めて応じると、韓人がまた眼を見開き、物悲しげな眼差しで私を見つめてきた。



 韓人は同母妹に屋移りを勧めることを終いまで渋っていたが、佐保と多治比の邸へと文をしたためて届けるように命じると渋々ながら引き受けて帰った。


 そのうちに門田の稲が刈り尽くされ、館から国庁へ向かう畦道に霜柱が立って、あれよあれよという間に雪深い冬が訪れる頃、池主が京から戻ってきた。

 雪に降りこめられた守の館に池主は律儀に挨拶にやってきた。

「久しいな池主よ。京は変わりないか?」

「変わると云えば変わった。洛中の東に大寺が築かれている。金光明寺の伽藍が築き直され、甲賀寺の件の盧遮那仏の骨組が移されて、冬には土を被せた塑像が仕上がっていた」

「あの丘のような仏か! 橘の大臣が戻られたら君の仏狂いをお諫めになるかと思ったが、どうやら追従なさるようだな」

 肩を竦めて軽く嘆くと、池主が眉を寄せ、何か奇妙な面持ちで私を見つめてきた。

「――如何した?」

「いや。大人にはお健やかそうで安堵致した。今少し沈んでいらせられるかと案じていたのだが」

「書持のことか? 国府の寺の僧どもが説く通り命は仮初のものだからな。あれは浄土へ去った訳ではない。黄泉路の坂で我らを待っているだろうよ」

 恭仁の川辺での別れ際、橋を渡り切ってから顧みても坂の下に立ち続けていた同母弟の姿を想いながら語ると、池主は眼を見張り、眦に皺を寄せて微笑した。「大人の語るのを伺うと、命はむしろ永久(とこしえ)のものであるようだなあ」



 臨終を目前にしない人の死を心底から嘆くのは難しい。


 私はあの冬本当に同母弟とはいずれまた逢えるように感じていた。



 越路の冬は永かった。

 年が明けても寒さはいっかな和らがず、雪降りも一向に収まらなかったものの、二月に入るとさすがに雪は降り止み、青灰色の雲の切れ間から淡い陽が射すようになった。

 同じ頃私は病を得て寝ついた。先の同母弟の弔事があったためか譜代の家人は案じすぎるほどに案じて国医者を館に詰めさせた。池主も三日と明けずに春の花を添えた歌を寄越してきた。

桜や山吹を読み込んで相聞めかした歌や詩はいずれも見事な出来栄えだった。張り合って返歌を拵えるうちに病も癒えた。

 春の最中、肥えすぎた白い蚕のように袷の衣に包まれて久々に館の庭へ出ると、淡く柔らかな陽射しが泥濘を燦めかせていた。

 その麗らかな春の陽が私は哀しかった。

 この世にもう書持はいないというのに、春は変わらずにめぐってくるのだ。

 非時(とくじく)ならぬ此岸(このきし)に生きることは哀しい。

 ただ生きるだけで哀しくて耐えられぬから、人は歌を拵えるのかもしれない。



 やがて山辺の桜が散り、山吹が散り、藤が散る頃、私は昨年の正税帳を届けるために京へ戻ることになった。

 出立の一旬前から下僚の館で別離の宴を重ね、四月の末にようよう国府を発った。

愛発の関を抜けて淡海の西岸を辿り、山科を経て恭仁の地へ至ると、かつての右京から河原の木津にかけての巷が思いもかけないほどよく賑わっていた。


 馬の蹄の埃に煙る大路の左右に筵を敷いた物売りが居並び、辻には乞食者が坐って、川辺へ出れば上からも下からも鉱の塊や瓦の束を満載した舟々が岸について、赤銅色の背の窪みに汗の雫を光らせた水夫どもが掛け声に合わせて荷を下ろしては車に積み直していた。


「おお、何と賑やかなことか! さすがに京じゃのう」

越で新たに召し抱えた若い家人の羽鳥羽咋が眼を見張って愕き、馬上の私を顧みて訊ねてきた。「守よ、あの堂が東大寺か?」

「いや、あれは泉橋寺だ。そもそも、此処はまだ京ではない。寧楽の京はかの山の先よ」私は微苦笑して応え、ふと気にかかったことを訊ねた。「東大寺とは先の金光明寺のことか? 京の事情によう通じているではないか」

「礪波の大領の一族が東大寺の使いと図って墾田を拓いている故の。先の詔で認められるより多くの田を拓いても寺へ施せば下司の役を代々伝えられると法師らが説いて回っているのだ」

「利ゆえに寺に布施をせよとか! 世知辛い説法だのう」

 その東大寺の使いとやらはは乞食者の唄を詠っていなかったか――と私は訊ねかけて止めた。



 夏の陽に燦めく泉川の向こうには、佐保川の対岸さながらの柔らかな若草に覆われた山裾が迫っていた。平城山の木深い茂りはみな伐り尽くされていたのだ。ひどく見晴らしの良くなった尾根を越えて佐保の邸へ向かうと、物見が報せを伝えたのか、門前で鮪麻呂が待ち受けていた。


 家人はまだよく残っていたものの、韓人の言う通り、主を欠いた屋の内は早くも荒み始めていた。

 厩の藁は重く湿って饐えた臭いを放っていたし、石段の際には夏草が生え、主屋の廊へとあがる沓脱の石の表面には白く乾いた泥がこびり付いていた。


 私は板の間に薄縁を敷かせ、飴色に透った瓜の漬物と水を掛けた飯とを食んでから、奥つ城の岩室の前の碑の列を詣でた。


 右端の祖父の碑はもっとも大きく、石の根が厚く滑らかな苔に覆われていた。

 父の碑の表面は鏡のように滑らかで、鋭い鑿でくっきりと文字を刻んであるため、水を掛けずとも懐かしい憶良の大夫の筆跡を見てとることができた。

 左端の最も小さな碑の前に一対の竹筒が埋められ、薫り高い山梔子の枝が活けてあった。


 碑は小さかった。

 祖父の碑よりも父の碑よりも小さかった。

 

 私は跪き、幼い同母弟を抱くような心地で石柱を抱いた。

「……――書持、相済まぬ」

 何を詫びるともつかないまま私は詫びていた。


 陽を浴びた石柱は暖かかった。


 撫でるうちに涙が溢れた。


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