第二十二章 黄泉平坂 1
宮内少輔は名の通り宮内の庶事を司る省の次官である。
私がこの役で宮に仕えた期間は短かった。
三月後の夏の末に越中守に任じられ、翌月には任国へ赴くこととなったのだ。坂上の叔母は歓びながらも別離を嘆き、床の辺に斎瓮を据えて旅の幸を祈ろうと詠って寄越した。
七月の下旬、思いもかけずよく集った族人たちに見送られて私は佐保を発った。
書持が平城山を越えて泉川の橋に至るまで見送りについてきた。
「氏上大人よ、家中の些事はこの書持に任せて公事に御励みなされ」
「うむ」
私は馴染みの重々しさを装って頷いてから、ふと何とも言えない可笑しさに襲われた。
「なあ書持、私ばかり済まぬなあ!」
「?」
「そなたは旅を好もう? 叶うなら越の山河を見せてやりたかったが」
「私まで行ったら誰が家を見る。済まぬと仰せならせいぜい立身なされよ」
「尤もだ。戻るまでまで幸くあれよ」
「兄上もな」
同母弟が眦に皺をよせて笑い、思いがけないほど強い両腕を私の背に回してきた。
越中は北陸道に属する。
礪波、射水、婦負、新川の四郡に以前は能登国とされていた四郡を加えた上国で、京から駅路を辿れば十日ばかりで至る。
まだ稲穂も色づかない秋の初めに平城山を越えた私は、山背から淡海の西岸を北へ進んで愛発の関を抜け、海沿いの道を北東へ下って八月の初めに任国に着いた。
加賀との国境を越えて坂本の駅へと差し掛かると、黄金色の穂波をそよがせる門田の向こうに国府からの出迎えの一行が待ち受けていた。
なかに池主もいた。
京にあった頃と変わらず、顎に緒が食い込むほどしっかりと冠を被り、皺ひとつない深藍の袍に身を正していた。
懐かしい姿を目にするなり私は嬉しくなった。
「池主よ、久しいな! 於比良女は息災か?」
馬の背から降りがてら声をかけると、同族の掾〔*三等官〕は微かに頷き、しかつめらしい小声で諫めてきた。「大人よ、席次を弁えなされ。身内の者への声掛けよりまずは介〔*次官〕殿に」
居並ぶ下僚のなかのどれが介かはすぐに分かった。
六位の深緑の袍を纏った背の高い男が、国印の櫃の鍵を乗せた盆を掲げ持ったまま絞殺したそうな顔で池主を睨めつけていたのだ。
国府に入って初めの務めは守の館で宴を催すことだった。
国司には人手が要りようだと長老たちに言い含められて新たに集った家人たちの名も碌に覚えられないまま、女手を欠いた館で宴の支度をさせるのは骨が折れた。
それでもどうにか調えた夜の宴に介の内蔵縄麻呂は現れなかった。油火を入れた板の間に集ったのは掾の池主を頭とした大小の目〔*四等官〕と三人の史生に加えて、国府寺の僧たちと郡司たちといった顔触れだった。
半ば以上が越人を占める宴席の会話が私には上手く聞き取れなかった。
手持無沙汰に酒を舐めながら道々に眼にした黄金色の穂波を想い起こしていると、射水郡の大領が心許なげに何かを訊ねてきた。
「池主、越の君は何と申しておる?」
「お若い守には天離る鄙の宴はお退屈かと。京に残してこられた美姫の褥をお偲びかと」
「妻の褥は確かに慕わしいが」
私は苦笑して応えた。「今は秋の田の穂向きをな。越の実りは上々のようだが大和は如何なものか。実入りの時季に庄へ行けぬと気がかりでならんのだ」
身内を相手の気安さでつい内々の雑事を零すと、池主が律儀に伝え直した。
余計なところは伝えずともよいと咎めようとしたとき、郡司が眼を見張り、心底からの親しみを滲ませた笑みを向けてきた。
「越の君の申すには、美し大和の実りは越よりさらに豊かであろうと。守の庄の稲の穂が地に着くほどにも実るよう二上山に祈ごうと」
「ほう、越にも二上山があるのか! この大伴の氏上も、越の君らの豊かな実りを大和耳成山に祈ごうぞ」
頭を低めて盃を掲げると郡司も同じ仕草を返した。
私は旧くよく知る何処かへ久々に帰り着いた気がした。




