第二十章 浄土
九月に入ると地震が止んだ。
池主の妻の於比良女は子を伴って越中へ行くと言い張って譲らなかった。私は道中くれぐれも気を付けるようにと言い含め、五つになるという児のために武器庫から古い蕨手の短刀を与えた。
五日後、元の内舎人仲間だった佐伯全成が佐保を訪ねてきた。
「久しいな佐保の大人よ。何やらよう人が集っているではないか!」
「おかげで倉の米が潰えた。佐伯の若子も長居はなさるな。また粥が薄くなる」
簾を挙げた板の間には心地よい秋の風が吹き込み、何処かで童子らの遊ぶ声が微かに聞こえていた。
留女が運んできた高坏の上の柿の実を抓んで頬張り、強い歯で咀嚼して飲み下してから、全成が白い歯を見せて笑った。「大人は変わらぬな! 恭仁で日毎に打毬に興じていた時分を思い出す」
「何を年寄りめかして。ほんの数年前ではないか」
「今ははや神代の昔のようよ」
全成が溜息をつき、柿の汁に濡れた指を丹念に舐った。「なあ大人よ、難波の事を訊かぬのか? 家中を安泰に保っていれば宮の変事は気にもかからぬか?」
「変事が生じたのか?」
「帝が病を得られた」
「病? 篤いのか?」
「御言は篤いと仰せだ」全成は皮肉な声音で応じた。「そのために、寧楽の宮を固く守らせた上で駅鈴と内外の印を難波に運ばせ、孫王を皆参集させよと仰せられた。私はそのためにわざわざやってきたのだ」
「孫王とは誰を指すのだ?」
「淡海の帝の孫がたと浄御原の帝の孫がたであろう」
「二世の王族ということか」
「ああ」全成が頷き、耳目を憚るように背後を顧みてから、心なし身を乗り出して小声で訊ねた。「大人は黄文王をご存知か?」
「散位頭のか? ――かの王は二世ではなかろう?」
「三世だ。長屋の大臣のお子であるからな。母御が淡海公の娘であったために命を救われたのだ」
「長屋の大臣か」
「ああ」
全成が頷いてまた柿を抓んだ。
常に快活な佐伯の若子に似合わず、何とも言えず物思わしげな表情だった。
またも長屋の大臣かと私は内心で嘆息した。
私の知らぬあの春――九つの春、私と書持が筑紫へ発ってからすぐ後にご家中もろとも討たれ給うた高市皇子の御子。
私の知らぬその御方の死が、数十年を経た今までも、世人の心に暗い影を落としているのだ。
「――橘の若子に誘われてな」
全成が不意に云った。
はっと眼を向けると、日頃は朗らかで屈託なさげな陽に焼けた若い貌に思いもかけないほど張りつめた表情が浮かんでいた。私は小声で訊ねた。「奈良麻呂どのが何を?」
「帝が逝去なさったら黄文王を高御座につけたいと。大伴と佐伯の一族が同調すれば必ずや叶うだろうと」
全成は低く掠れた声で話し、見えない何かに怯えるように背後を顧みてから、私の襟を掴まんばかりに身を乗り出してきた。
「橘の若子は云ったのだ。大人は安積皇子の為に恭仁で族人を集めたと。それはまことか? 大伴の氏上大人は橘の家に随うのか?」
「全成よ、口を慎め」私はつとめて権高に告げた。「私は確かに恭仁で族人を集めた。だが、それはひとえに君の御子のためだ。私は何にも随わぬ。我ら大久米主の末裔が頭を垂れるのは、天にも地にもわが大君だけだ」
「--そうか。ま、そうではないかと思ってはいたが」
全成は安堵とも失望ともつかない息を漏らし、とってつけたような笑みを浮かべて柿の切れを口に放り込んだ。
この秋の君の病はそう大事には至らず、時ならず難波に召された実に九名に及ぶ二世の王族の何れかが日嗣に定められることもなかった。
九月の末に君が橘の大臣を伴って――あるいは大臣が君を伴ってか?――寧楽へ還御なされた。
n二月後、長らく大臣と行いを共にして智慧の上での懐刀と目されていた玄昉僧正が、太宰府の観世音寺の造営に当たるようにと命じられて筑紫へ遣わされた。
僧正に与えられていた封戸と財物もみな没収されたため、これは一種の流罪だと人には目された。紫香楽の君に相対した橘の家の咎はみな玄昉僧正に負わされたのだと。
玄昉僧正に代わって京の僧の第一人者となったのは無論のこと行基大僧正だった。
四大寺のひとつである薬師寺の別当に任じられた行基大僧正が四人舁きの輿に乗り、象牙の轅をつけた山梔子色の衣笠を差し掛けられて朱雀大路を下って行く様を、弊衣に袈裟を重ねた優婆塞たちや寺住まいの浄人や童子は無論、恭仁や紫香楽から逃れてきた市人たちも詰めかけて歓呼しながら見送っていた。
そうして寧楽に再び賑わいの戻った翌月、長く病みついていた命婦の大婆刀自が死んだ。
弔いは予てから当人が望んでいたため、氏の慣わしに随って斎姫が取り仕切る代わりに、族の児らに読み書きを教える務めを専らとしていた氏寺の僧たちに任せることになった。
祖父の安麿が邸の近くの谷間に建てさせ、後になって佐保川を渡った東の山裾に移された氏寺は名を永隆寺といった。
童子の頃、筑紫へ呼ばれる前には、私や同母弟もこの寺で初めの読み書きを習ったのだった。
久方ぶりに訪れる寺は憶えている様と何ら変わりなかった。
檜皮葺の屋根の苔むした本堂の奥に黒漆塗りの厨子が据えられ、中に金銅の仏の坐像が収められていた。
左右に燈る油火と微かな白檀の芳香。
金色に輝く佐波理の椀に浮かべられた山梔子の小枝。
其処には私の初めて知った非時の静謐があった。
族の祭祀の熱狂に浸るだけでは決して得られない安らぎと、ひたひたと心に染みこむ悲傷があった。
「――母が仏の浄土へ赴くならば私とはもう逢えぬのう」
僧たちの長い読経が果てた後で、寺の裏で躯が焼かれているとき、夕空に立ち昇る煙を仰ぎながら坂上の叔母が呟いていた。




