第十八章 万燈会
やがて山吹が咲き誇る頃、外京の金光明寺の大般若経が平城山を越えて紫香楽へ運ばれていった。
皇后宮の写経所を統べる市原王が運搬の監督を命じられたらしく、帰りがけに佐保を訪れ、そろそろ喪服を脱いで出仕するようにと諭していった。
太上天皇と従一位左大臣が難波に、君ご自身は紫香楽にいらせられたこの年、どちらを京と見做すべきかを見極められず、私を含めて多く者が寧楽へと戻ってきていた。
宮仕えの季禄はもう長く滞っていたし、国内の庄からの実入りが確実ならば、さして多からぬ家中の者たちは充分に養っていけた。私は叔母に代わって竹田の庄の田植えを監督に赴き、久々に跡見も訪ねて山田を見て廻った。
そうして穏やかな夏が過ぎ、秋が過ぎ冬の半ばが過ぎる頃、太上天皇が難波から紫香楽へ移られたという噂が聞こえてきた。その翌月、平城山を越えて無数の僧たちが進んできたのだった。
私はそのとき久々に外の的場で書持と騎射を競っていた。
板垣に沿って五つ並べた的に馬上から鏑矢を射掛け、最後の一つを射損ねて舌打ちをしながら馬を降りた時、遠く微かな鉦の音が響いてきた。音は次第に大きくなり、じきにあの忘れがたい乞食者の歌が聞こえてきた。
幾百ともつかない声の唱和は佐保の門前を過ぎて外京へと向かっていった。
行先は金光明寺であるようだった。
「僧どもが戻ってきたということは、大君もお戻りになるのであろうか?」
書持がいつもの癖で弓の背を叩きながら心許なげに呟いた。
異変は二日後に起こった。
夕餉を済ませて書き物でもしようと寝間に油火を運ばせていたとき、夕の物見に出ていた若い家人の韓人が息せき切って主屋へと駆け込んできたのだった。
「大人よ、京が燃えております!」
「燃える? 火事ということか?」
「外の門からご覧じよ!」
促されるまま外へ向かうと、同じく呼ばれたらしい書持が門の台へ上ろうとしていた。
倣って傍らに並ぶなり私は息を呑んだ。
韓人の云う通り、佐保川の向こうに三重に列なる丘裾の初めの狭間、まさに外京の広がる筈の付近が、時ならぬ入日に照らされたように真赤に染まっていたのだ。
「――よもや、あの僧たちが?」
同母弟が潜めた声で呟いた。
私は不意に志賀の廃都で耳にした君の御声を思い出した。
――燃えているようだ。
入日に染まる山寺を仰いで君はそう仰せられた。
私はあのとき思ったのだ。
お望みならばお燃やし致すと。
君は古い京をお厭いになり、とうとう焔をかけられたかもしれぬ。
……――そのとき私が感じていたのは身を斬られるような嫉妬だった。
君は私ではなくあの僧どもに、賎しい血肉を捧げると謡う河原の乞食どもに、京を燃やせと命じられたのか?
そう思うなり乞食坊主どもを残らず屠りたくなった。
「……――兄上、如何なさる?」
書持が張りつめた声で訊ねてきた。
私ははっと引き戻された。
「むろん様子を見に出る」
「ご自身でか?」と、書持は顔をしかめた。「まずは私が参るゆえ、兄上は報せを待たれよ」
「従わぬならば訊くなよ」
思わず言い返すと、書持はにやりと笑った。「何事も氏上大人の仰せのままに――と、長老どもに躾けられたゆえな」
韓人と小三依を伴って騎馬で出ていった同母弟は、月が高くなりきる前に戻ってきた。そして陶然とした面持ちで云った。
「兄上、案じなさるな。京は燃えてはおらぬ」
「では何が起こっているのだ?」
「その眼でご覧じよ――家の女どもも伴うのがよい。危ういことは何もない。あのような様、千年を生きてもまたと目にすることは叶わぬやもしれぬ」
書持は何かに憑かれたような声音で言い募り、韓人に命じて牛車の支度をさせた。
轅の傷んだ車に留女と大婆刀自を乗せ、小三依と韓人に轡をとらせた馬で京へ向かうと、進むごとに焔の眩さが増した。
佐保川の畔に差し掛かると、同じく様子を見に出たらしい徒歩や車の者たちが歩んでいた。人の流れに従って川の畔を下り、二条大路を西へ歩むにつれて行く手から仄かに温んだ風に乗って荏胡麻油の燃える匂いが流れてきた。
「真に火事ではないのだな?」
「ああ。危ういことはない」
書持が力強く頷いて車の前に進んだ。
やがて二条の大辻に出ると明るさの源が判った。
朱雀門から遥かに南の羅城門まで、大路の両側に植わった柳に縄が渡され、油火を入れた紙張りの燈籠が吊るされていたのだ。
「これは――何かの祭祀なのか?」
「仏の祭祀だ。万燈会と云うのだそうだ」
怯えて足踏みを繰り返す馬の頸を叩いて宥めながら書持が呟いた。
乙撫子を抱いて車から降りた留女が、零れんばかりに目を見張って息を吸い込むのが判った。
「かの僧どもが燈したのか?」
「帝の仰せによって燈したのだそうだ」
書持が眼を燈火に向けたまま応えた。「法師どもが話しておった。帝は紫香楽に大寺を築き、盧遮那の功徳によって苦しみの多い人の世を遍く救おうとなさっているのだと。盧遮那とは梵語で光明偏照を――遍くこの世を照らし給う御光を呼ぶのだそうだ」
書持は恭しく云い、不意に頭を低めると、掌を合わせて祈り始めた。
私はそのとき何故かあの旧い土牛を思い出していた。風雨に朽ちてひび割れた土牛。冬中御門を守り通した益荒な土の牛――……
「眩いのう――」
これも陶然と燈火を見あげる乙撫子の頭を撫でながら同母妹が呟いた。
「眩くて眩くて、目が暗みそうじゃのう……」
その声は酷く哀しげだった。艶やかな黒髪を撫でる手に、乾いた白い骨のような貝の腕輪が嵌まっていた――




