第二章 犬馬の忠 1
私が十二になった年の早春、父は大宰府での勤めを終えてようよう京へ戻った。
念願だったはずの大納言の官職――佐保大納言と謡われた祖父の保麿と同じ官職――を、ようやくに得たというのに、父の顔にはさほどの歓びは見られなかった。
「儂はの家持」と、父は私にこぼした。「寧楽には大郎女を伴って帰るつもりだったのだ。佐保の邸に戻ってもあれがおらぬとなあ」
三年ぶりに佐保へ戻ると、父はまず邸中の栴檀の木を切らせてしまった。
「栴檀はあれが好きだったからのう。見ると思い出して辛い」
佐保へと帰りついてこの方、父はいつも死んだ大郎女のことばかり話していた。
そして半年を待たずに自分も死んでしまった。
この父の弔いが、斎姫の叔母がはじめて一族を集めて取り仕切る祭祀になった。
叔母の仕事はてきぱきとしたものだった。耳成山の麓に氏上の家の有する竹田の庄から奴を呼んで殯屋を建てさせ、大和や摂津に散らばる主だった族人の家々に遣いを走らせた。
半年だけだが、まがりなりにも「佐保大納言」の逝去である。弔いにはかなりの人が集まった。
野辺送りは晴れすぎた夏のような午後だった。切妻屋根の両端に千木を打ちあわせ、棟に五本の鰹木を並べた殯屋の前に円い大きな樽が伏せられ、その右に榊が植わっていた。
榊は飾り立てられていた。
翡翠の珠を連ねた緒を絡められ、下枝には楮と木綿の白い糸の束が結ばれ、中ほどに円い青銅の鏡が括りつけられていた。
それこそが我ら一族の御真澄、斎姫の守る氏の御鏡だった。
氏の誰もが畏れ敬うその品には、一体どんな力が潜んでいるのだろうか?
私がじっと見ていると、稲公が呆れぎみに声をかけてきた。
「若子よ、そうまじまじと見るな。御真澄の照り返しで目が潰れてしまうぞ。若子が今日より預かるのは御真澄ではなく御佩なのだからな」
「みはかし?」
「ああ」と、稲公が頷いた。「御佩は氏に伝わる剣だ。今までは氏上大人が預かっていらせられた」
「それを私が預かるのか?」
「然様」
稲公の代わりに重々しく答えたのは、いつのまにか近寄ってきていた古麻呂だった
「覚えているか若子よ、先の夏に氏上大人が病にかかられて私と稲公を筑紫へ呼ばれたことがあっただろう? あの折に命じられたのだ。御佩は若子に継がせる故、我ら二人で左右から支えるようにと。のう稲公?」
「ああ」
稲公が頷き、眩しげに眼を細めて殯屋を見やった。「氏上大人はまことの益荒男でいらせられた。若子も氏の名に恥じぬ上となれよ」
左右から置かれた二人の手が私の肩には重かった。
――益荒男。
益荒男とはいったい何であろう? 怖れを知らず、嘆きを知らず、大君の御為に剣を振るう者か?
私は自分がそんなものになれようとは到底思えなかった。
父はどうして年かさの古麻呂や稲公を次の氏上に選ばなかったのかと憤りさえ感じていた。
やがて陽が背の後ろに移り、榊に架かった氏の鏡が煌煌と白く輝く頃、鳶の鳴き声を思わせる鋭い笛の音が響いて、殯屋の左手に張られた藍の幕屋の内から叔母が現れた。
叔母は幅広い白麻の布を斜めに掛け、日陰の葛を襷掛けにし、青い蔓草の鬘を被って笹の束を手にしていた。髪を解き、頬にも赤土を塗りつけた貌が夏の陽射しにひび割れた古い土偶のように見えた。叔母がこちらに背を向けて桶の上に立つと、幕の内からまた笛の音が響き、軽やかな鼓の音に合わせて叔母が踊り始めた。
裸の踵で桶を踏み、腰をひねり、髪を振り乱して踊りながら叔母が父の名を叫ぶと、後ろに居並ぶ族人も声を揃えて叫んだ。甦れ、甦れ、甦れと――……
だが、むろん死者は蘇らなかった。
千の族人が呼ばわろうとも、死者は黄泉返らない。
やがてまた笛が響くと叔母が踊りを止め、桶を降りて殯屋へ入っていった。
じきに出てきた叔母は笹の束の代わりに剣を手にしていた。
柄頭に二頭の竜を象った金銅の環を飾り、木の鞘に金で蕨の紋様を描き、先と根とに透かし細工の留め具を嵌めた煌びやかな剣――それこそが一族の御佩だった。御真澄と並んで神代から伝わる氏の宝だ。
叔母が剣を両手で高く掲げると族人が一斉に頭を低めた。
「お出であれ。若き氏上大人」
赤土の化粧を施した叔母の貌は神さびていた。
躊躇いながら進み出ると、叔母が片膝を折って剣を差し上げてきた。
「氏族の子らの上よ。汝に剣を預ける」
叔母が両腕を差し伸べると黒い毛の渦巻く腋窩から饐えた果実を思わせる汗の臭いが漂ってきた。
私は唇を歪めたくなるのを堪えて剣を受けた。
「――若子よ、抜いて刃を掲げるのだ」
叔母が小声で囁いた。
震える手で鞘から剣を引き抜き、思いがけない重量にたじろぎながら掲げるなり、族人が足を踏み鳴らして謡い始めた。
大伴の
遠つ神祖の その名をば 大久米主と 負い持ちて
仕えし官
海行かば 水漬く屍
山行かば 草生す屍
大君の 辺にこそ死なめ 顧みはせじ
歌声は慟哭と似ていた。誰もかれもが唄いながら涙を流していた。とりわけ激しく泣いていたのは余明軍だった。
この者たちにとっては大君とは父のことだったのだと私は初めて気づいた。
そしてこれからは私が彼らの君になる。
彼らは共に私を仰いで悲喜を分かち合うのだろう。
ならば仰がれる私の悲喜は?
私は誰とこの悲しみを分かち合ったらいいのだろう……?
そう思った瞬間、私は眩暈のするような寂しさを感じた。
私は独りだった。
天と地のあいだにたった独りで立ち尽くしていた。




