第一章 土の牛 2
……――ああ、筆が止ってしまった。
灯の油もだいぶ減じた。
そろそろ休むべきだと判ってはいるのだが、今しばらく書き物を続けたい。
明日は元旦だ。
新任の国司として様々な仕事がある。
今もって公事に携われていることは、私にとっては殆ど僥倖に等しいのだろう。
私は因幡の国司として国府の館にいる。
同じ屋根の下には京から呼び寄せた正妻――かつての赤い頬をした坂上の大嬢だ――もいるし、嫡子の永主もいる。
私は生き長らえた。
様々なものを失いながら、生ぬるく淀んだ汚水の中で、今もって生き長らえている。
そのことを嘆く資格は私にはない。
ともかくも私は生き長らえたかったのだから――私自身にも一族にも、かなうなら千年の命を願いたかったのだから。
◆
――大嬢と二嬢はそのあともしばらく泣いていたが、じきに泣き疲れたのか、ぐずぐずと鼻をすすり上げながらも頭を低めて、
「母よ、行っていらっしゃいませ」
と、挨拶をした。
叔母は眦を細めて頷くと、白い掌を二人の頭の上に置いて笑った。
「二人とも息災でな。家刀事の仰せをよく聞くのだぞ? 留女とも仲良うな――」
叔母はそこまで口にしたところで、堪えかねたように顔を歪め、声をあげて泣きながら娘二人を同時に抱きしめた。
「ああ、ああ、連れていけたらのう!」
「母よ、泣くでない」と、大嬢がこれも泣き声交じりに言った。「氏上の仰せなのだろう? 大伴の郎女は従わねばならぬのだろう?」
すると叔母は泣きながら笑った。「ああ、そうだった。そうだった。大嬢に一本とられたのう」
「郎女たち、いつまで泣いておる!」と、大婆刀事が一喝した。「早う発て。喪中の内々の出立とはいえ、佐保大納言家の郎女と若子たちが発つのだ。聞きつけた族人どもが門前につめかけておろうて」
やれやれ困ったものだ――と、言いたげに大婆刀事はため息をついたが、その声音には隠し切れない晴れがましさが滲んでいた。
叔母とともに門前へ向かうと、前庭にはなるほど結構な数の人がいた。ほとんどが大人だったか、中に二人、十五、六の少年がいた。
一方は浅黒く背が高く、彫りの深い険しい面立ち。もう一方は坂上の叔母とよく似た色白の美しい顔立ち。
二人の少年の名前を私は勿論知っていた。
父の早世した異母弟の子である古麻呂と、坂上の叔母の同母の末弟の稲公である。
私たちの姿を見とめるなり、少年たちは競うように駆け寄ってきた。
「郎女、気をつけてな」
「姉上、氏上によろしう頼む」
「おお、おおお落ち着け若子たち。子らがたまげておる」
叔母が自分より背の高い二人の頭を撫でようとすると、古麻呂は従順な猟犬のようにわざわざ頭を低めたが、稲公は身をよじって逃れ、私と同母弟に視線を向けると、今しがたの叔母とそっくりな顔で笑って私たちの頭を撫でた。
「二人とも気を付けて行けよ」
そこでもここでも交わされる挨拶はなかなか終わらなかった。
仕舞に叔母がパンパンと掌を叩いてみなを静まらせた。
名残惜しげにまとわりついてくる族人に囲まれながら石段を下って表門を出ると、路に牛車が支度されていた。
黒々と艶やかな牛の傍に、父の位階に応じて宮から付された護衛である資人の余明軍が控えていた。
「待たせたの余明軍」
叔母が愛想よく笑いかけると、資人は恭しく頭を低め、車の簾を手ずから上げ、乗り込むようにと促した。
まず叔母が乗り、私が乗り、仕舞に同母弟が乗る。
「発つぞ」
叔母が凛とした声で命じると、車の外から恭しい応えが戻った。
「はい斎姫」
その声からは深い敬いが感じられた。
私はよく知るはずの叔母が、不意に知らない大きな何かに変じてしまったような寂しさを感じた。
車が洛中へ進んでいくにつれ、簾の外から人の声が聞こえるようになった。
賑わいがひと際大きくなったころ、外から不意に余明軍が声をかけてきた。
「斎姫、右手にみかどが見えますぞ!」
「何と、すでにもう見えるか! 余明軍、車を止めよ」
車が停まるとすぐに、叔母は自らの手で簾をあげた。
途端に冷たく爽やかな風が右の頬を撫でた。
流れ込んでくる大路の喧騒。早春の午後の光。
土埃の燦めき。
馬の嘶き。
外の世界が眩しく開け、私は眩暈を感じた。
「御叔母よ――」
何故開けるのだ?
そう訊ねようとしたとき、叔母が眩しげに眼を細めながら車の外を仰いで云った。
「家持、書持、よう見ておけ。あれが我らの名負いの御門だ!」
叔母の仰ぐ先にあったのは、広やかな大路の突き当りにそびえる堂々たる二層の楼門だった。
艶やかに熟れた柿のように照る太い朱の柱が反りのある碧い甍屋根を支え、左右に黄金の鴟尾が輝いていた。
「なおいのみかど? それならあれが話に聞く大伴の門なのか?」
訊ねると叔母は誇らしげに頷いた。
「そうだ。今でこそ唐めかしてシュシャカ・モンなどと呼ばれているがな、あれは今でも大伴の門だ。われら大伴の氏は上代から大君の住まわれる御屋の南を護ってきた。だから、飛鳥でも難波でも、宮の南の御門は大伴の門と呼ばれてきたのだ」
朱雀門という発音を、叔母はいかにも馬鹿にしきったように発音した。
数えると門には六本もの柱が並んでいた。
柱のあいだに門衛の兵士が並んでいた。目庇つきの鉄の冑を被って黒革の短甲を纏っている。私は叔母に訊ねた。
「なあ御叔母よ、あの門が大伴の門なら、あすこに並んでいる兵士も大伴の族人なのか?」
途端、叔母の貌から表情が消えた。
頬が豊かで眸のよく輝く朗らかな美を備えた叔母の貌が俄かに夜叉のように変じる。
私は寒気を感じた。
「――家持、あれはの、あれは中衛舎人じゃ」
「チュウエのトネリ? そんな舎人がいるのか?」
「この頃できたのだ。そなたもいずれ氏を率いる男であれば覚えておくのもよかろう」と、叔母は柱の間を睨みつけながら云った。「彼奴等は藤原四家の狗だ。生まれもつかぬ賤の男どもが、名負いの門にまでしゃしゃりでおって!」
叔母の声音や眼つきからは激しい怒りが感じられた。
私は咄嗟に話題を逸らした。
「あの、御叔母――」
「なんじゃ?」
「その、我らの名負いの門には何故牛がいるのじゃ?」
「牛? 牛など何処に――」
叔母が呆れ声で訊ねると、私ではなく同母弟が基壇の端をさした。
「兄上、あそこであろう? 御叔母よ、ほれ、あそこだ! あそこに大きな土の牛がある!」
動物好きの同母弟がはしゃいだ様子で指さす先にいるのは、まるで本物のように大きな赤茶の牛の土偶だった。
黒く寂びた鼻輪から色褪せた朱の尾が伸びて、牛飼い童を象っているらしい目鼻を穿った土の筒から突き出す突起に絡みついている。
同母弟の指しているものに気づくと、叔母はあきれ顔で笑った。
「何だ、何かと思えば! あれは追儺の土牛だ。京の内から悪い疫病の神を追うために冬の最中にそなえての、春が来るまでああして門を護らせるのだ」
「そうか。公事を果たす立派な牛なのだな」
同母弟は精一杯大人ぶった顔で頷いてみせたが、不意に顔を曇らせ、叔母と土牛を見比べながら訊ねた。
「なあ御叔母よ、もうじき春よな?」
「そうさの。筑紫に着くころには春の盛りであろうの」
「ならあの牛はどうなるのだ? 春が来たら何処へやられるのだ?」
「さてどうなるのであろうのう――打ち砕いて佐保川へ流すのであろうか?」
叔母が眉をあげて意地悪く云うなり同母弟は泣きそうな顔をした。
「おやおや、書持はちっと心持が優しすぎるのう。追儺の牛を憐れんで涙を流すとは」
「書持は泣いておらぬ!」と、同母弟が言い返した。
叔母は声を立てて笑うと、同母弟の頭を乱暴に撫でた。
「案ずるな。冬じゅう御門を守り通したけなげな牛だもの。もし川へ流されても常世の国へ行こうて」
「まことか?」
「まことだ。常世の国はよい処だ。花は散らぬし実は朽ちぬ。その岸に至れば、土牛もまことの牛となろうよ」
叔母は優しい声で云った。
「そうか。まことの牛となるのか」
同母弟は嬉しそうに応じた。
土牛は風雨に朽ちかけていた。赤茶の膚が乾いて、あちこちに小さなひび割れが入っているようだった――……




