第一章 土の牛 1
永遠の春
Nota, mortuum vivere per gloriam
――死びとよ 誉れに拠りて生きよ
故郷――という言葉を思うとき、初めに想起されるのは、麗うらと白く鮮明かな筑紫の春の陽射しだ。
可笑しなものである!
生まれた土地ではない――どころか、筑紫は育った土地とさえ呼べないだろうに。
大和の古い氏族たる大伴の氏上の嫡子として生まれた私は、当然ながら大和の寧楽で生まれ、九つまでは寧楽で育っていた。
私の生まれ育ったあの古い邸――佐保大納言と呼ばれたわれらの祖父、大伴保麿の建てた佐保の邸は、今はもう頽れた石垣と礎石ばかりを残して苔むしているだろう。さざ波の志賀の京が苔むしたように――……
もう三十余年も昔になる神亀六年の如月、九つの私は生まれて初めてその邸を後にし、父の旅人の待つ筑紫へと向かおうとしていたのだった。
あの朝のことは今でもありありと思い出せる。
九つの私は夜明けの前に女嬬たちに起こされて寝間着を白い喪服に着替えさせられ、大慌てて朝餉をとらされてから、同じなりをした同母弟の書持とともに、佐保の邸の家刀事〈*女主人〉たる「命婦の大婆刀事」の住まう奥の屋へと向かったのだった。
祖父の保麿の最後の正妻だった大婆刀事は、石川氏の生まれながら、あのころはもう神代の太古から邸の奥に住まっているように思われていた――少なくとも九つの私は、そのように感じていた。
子供の心に映る一日は長い。
一年は永遠のように永い。
幼いころは臆病だった同母弟の書持は、口には出さないながら、奥の屋に住まう神さびた何かのようなあの老女を明らかに怖がっていた。
石段を上がりながら握ってやった七歳の同母弟の掌――熱く軟らかくふっくらとしたあの小さな掌――が、寒いのに微かに汗ばんでいたことを、今でもよく覚えている。
「申し命婦さま。若子がたを御連れいたしました」
廊から女儒が呼ばわると、部屋のなかから思いがけない声が返った。
「おはいり若子たち」
その声は大婆刀事のものではなかった。
途端に私は嬉しくなった。
なかには坂上の叔母がいるのだ。
叔母は怖くはなかった。怖いどころではない。母を知らない私たち兄弟にとっては、母と同じほど慕わしい女人だ。
「兄上、御叔母がいるのか?」
同母弟が心底安堵したように囁いてくる。そうだ、と応じかけたとき、
「家持、書持、早う入らんか!」
部屋のなかからしわがれた声が怒鳴った。
これこそ大婆刀事の声だ。
私たちは慌てて入った。
部屋の中にいたのは思った通りの女たちだった。
正面の薄縁の上に白髪頭の小柄な命婦の大婆刀事が坐り、いつものように右側に、髪をかむろに切りそろえた初老の女が控えている。大婆刀事に仕える新羅生まれの老尼の理願だ。理願の傍には、これも白い喪服をまとった同母妹の留女が、そして左側に坂上の叔母がいた。
坂上の叔母は大婆刀事の娘――つまり、私たちの祖父である保麿の末娘で、あの頃はまだ三十になるやならずやという年頃だった。
私はこの叔母が大好きだった。あの頃の叔母は本当に美しかった。一目で才気に満ちていると判るきらきらと輝く眸と赤く豊かな唇。輝くばかりの黒髪を簡素に結い上げ、大婆刀事と同じ白い喪服をまとっていても、叔母がそこに坐しているだけで、あたりには明るい薄紅色の曙光が滲みだしているかのように思われた。
叔母の左右には、これも喪服の女児が二人いた。叔母の長女の大嬢と次女の二嬢である。二人の父親は同族だったが、あの頃はもう叔母とは別れていた。
「久しいなあ若子たち!」
私たちの顔を見るなり、叔母は優しい声で言った。「これからしばらく長旅になる。家刀事に出立の挨拶をおし」
「はい御叔母よ。―-家刀事、行ってまいります」
「おう。つつがなくいけよ。そなたらが旅をする間中、枕辺に斎瓦を据えて道中の無事を祈っている故な」
大婆刀事が重々しくも親切そうな声音で告げ、思いもかけず、深々と頭を低めてくれた。理願がすぐに倣うと、五歳の同母妹の留女までが慌てて真似をした。
まるで氏上が拝賀されるかのようだった。私は自分が公事に関わる一角の大人になったような晴れがましさを感じた。
そのとき、
「――母は行っては嫌!」
叔母の後ろでうつむいていた二嬢が不意に泣き声をあげた。
「母は行っては嫌! 母は行っては嫌! 行くなら二嬢も連れて行って!」
「二嬢、いつまでもわりないことを」と、大婆刀事が苛立たしげに咎める。「先ほどからさんざん申し聞かせたであろう? そなたらの母には筑紫で大事な務めがあるのだ」
「そうだ二嬢、大嬢もよくお聞き」と、叔母が柔らかな声で言って、娘たち二人を左右から膝に引き寄せ、白い手で背中を撫でながら続けた。
「母はの、筑紫で一族の御真澄を護る斎姫となるのだ」
「いつきいひめ?」
「そうだ。――われら大伴の氏上たる旅人さまはの、朝廷から太宰府の帥という大役を仰せつかって筑紫におわすのだ。その筑紫で、氏上の正妻であられた大郎女が身まかられ、氏に伝わる御真澄の御鏡を祀る斎姫がいなくなってしまったのだ」
われら兄妹の父である大伴旅人の正妻は同族の姫だったが、父とのあいだについに子をもうけられなかったため、父が五十を超えたとき、特例として迎えた多治比氏の郎女とのあいだに私たち三人を嫡子として設けたのだった。だが、父の心は常にあの同族の老いた静かな斎姫のもとにあった――
「それゆえにな、氏上はそなたらの母を新たな斎姫として定めたのだ」と、大婆刀事は誇らしげに言った。
「それなら我らもともに行く! 殿の若子らは行くのに、母の子である我らが行けぬなどおかしいではないか!」と、今度は大嬢が泣き声交じりに訴える。すると今度は叔母が柳眉を吊り上げた。
「大嬢までが何を言い出す? 若子二人は必ず伴い、郎女たちは佐保に残せと氏上の仰せなのだ。そなたら大伴の郎女であろう? ならば氏上の仰せには従わなければならぬ」
「そうだ。二人とも留女を見習え」と、大婆刀事が加勢した。「見ろ、この落ち着いた姿を。母はとうに去り、父たる氏上は遠い筑紫に、今さらに兄子二人と別れようというのに涙ひとつ零さぬ! これぞ大伴の郎女、大君の御門を御守りする靫負の氏の姫よ!」
大婆刀事が大仰に誉めたてながら、じっと無言で坐っている私たちの同母妹に初めて目を向けた。途端、同母妹の痩せた青白い顔にパッと赤みが射すのが分かった。
――青白い貌。
私は自分の追想を少しばかり心もとなく思う。
あのとき同母妹は本当に青白い顔をしていたのだろうか?
六歳にもならない幼い留女は、たった独りであの邸に取り残されようとしていた同母妹は、記憶のなかにある幼い大嬢や二嬢と同じような活き活きとした赤い頬を、本当にしていなかったのだろうか……?
ルメ。
留・女。
家に留まる女――
同母妹の名に与えられた呪いのようなこの二字を思うたび、私は深い悔恨にかられる。
私はどうしてただの一度でも、取り残された同母妹の苦しみを察してやらなかったのだろうか? あの古く苔むした邸に縛られ、留められ続けていた女の苦しみを――




