第十六章 松風 2
翌月、君は仲麻呂大夫を留守官として恭仁に留め、あの絢爛かな御座船で難波へ下って行かれた。
橘の大臣は無論のこと、太上天皇と安積皇子も同行なさった。
朝に川辺まで見送りに出た私は、久々に顔を合わせた市原王に誘われ、王の知己らしい二、三の文人と連れ立って宮の東北の活岡に登った。
薪にするために立ち木を伐り尽くされた岡の腹は柔らかな若草に覆われ、頂に一本だけ松の古木が残されていた。
下枝に風雨に黄ばんだ木綿の糸が結ばれてあるところからして、おそらくは神木なのだろう。我々はその根元に薄縁を敷かせて酒を酌み交わした。
「ああ天が近い。すがすがしいのう! この高さから見れば大宮もちっぽけなものよな」
市原王が立ち上がり、女人のように白い手を額にかざして遠望を眺めてから、松の古木を顧みて溜息をついた。
「この木など幾代を経ているのか。梢を吹く風の音さえも浄らかではないか」
ほつれ毛を風に乱して梢を仰ぐ市原王の微笑は貴やかだった。
私は遠い少年の頃、跡見で歌集を借り合った時分のあののんびりとした王と久方ぶりに相まみえた気がした。
「魂きわる命がいつまで続くかは知れぬが、長いことを願って枝を結びましょうぞ」
歌の形で誘いかけると王は笑って頷き、古木の下枝に手を伸ばして先を環の形に撓めた。
「何ぞ束ねる緒はないかの?」
市原王が手で枝を押さえたまま一同を顧みたとき、岡の下から駆けあがってくる蹄の音が聞こえた。
杯を手にした文人たちがばらばらと立ち上がり、張りつめた面持ちで私に眼を向けてきた。
「氏上大人――」
「方々、私の後ろに。迂闊に動きなさるな?」
剣の柄に手をやりながら一同の前に立つとすぐ、深緋の袍を纏った大夫が艶やかな栗毛の駒を駆って坂路を上ってくるのが判った。
「……――橘の若子、か?」
市原王が声を漏らした。
騎馬の大夫は見紛いようもなく奈良麻呂どのだった。
蹄の音を轟かせてたちまち近づいてくるなり、馬の背を降りて私に向き直った。
「――如何なされた?」
「皇子が倒れられた」
「皇子とは、安積皇子が?」
「他に皇子はなかろう!」奈良麻呂どのは噛みつくように応え、私の肩に両手を置いて顔を覗き込んできた。
「父からの言伝だ。大伴の益荒男を集めてわが家の門を護ってくれ」
「橘の?」
「皇子をお運び致した」
「何故大宮へお連れせぬ」
「留守居は南家の仲麻呂ではないか! 病みついた皇子なぞお連れしてみよ、中衛舎人に門を塞が我らは締め出される。そして明日には皇子の棺が運び出されるであろうよ!」
「若子よ、もちっと声を潜められよ!」
市原王が鋭い声で咎めた。「耳目は何処にあるか判らぬのだぞ?」
「誰の耳目だ、仲麻呂のか?」奈良麻呂どのは刺々しく応じ、唇を引き締めてまた私に向き直った。「家持、引き受けてくれるか?」
「恩義ある大臣のお頼みとあればな」
私は激しい鼓の音のように胸が高鳴るのを感じながら声を絞り出した。「どれほど集まるかは知れぬが呼ぶだけは呼んでみよう。馬を借り受けるぞ」
奈良麻呂どのから借りた栗駒は性が良かった。
宮の南の橋を渡って左京の大路を駆けがてら、目についた族人の家の門扉を叩いて呼ばわった。
「大伴びとよ弓を取れ! 我らが皇子の大事である! 恭仁の左京の橘の邸に馳せ参じよ!」
喉も嗄れよと呼ばわりながら、私は熱く激しく脈打つ自分自身の拍動を感じていた。
それは鼓の轟きのように私の躰を駆り立て、あらゆる怖れと躊躇いをひととき忘れさせた。
ひとわたり門扉を叩いて呼ばわってから坂路を駆けて山荘へ戻ると、蹄の音を聞きつけたのか、刀を帯びた小三依が門前で待受けていた。
「大人よ何事か?!」
「話はあとだ、戦支度をする。狩衣と弓を持て――いや、そなたはすぐさま佐保へ発て。書持に報せるのだ。召せる限りの族人を召し、武具を帯びて恭仁の橘の邸へ参じさせよと」
「相判り申した」
小三依が頷いて厩へ駆けていった。
身支度を手伝う鮪麻呂は思いのほか落ち着いていた。
何が起こったとか、何をするのだとかは一切訊ねてこない。
しまいには私のほうが気がかりになって問いただしてしまった。
「鮪よ、何も聞かぬのか?」
すると老いた家人はきまじめな顔で応えた。
「益荒男の伴が戦支度をするのに、何を訊ねることが?」
その平然とした応えに、私はすっかり愉快な心地になった。
大急ぎで身支度を調え、栗駒を駆り立てて橘の邸へ急ぐと、鬼瓦を飾った正門の前に、すでに十数名の族人が参じていた。馬と従者を連れている者も多いようだ。
前に立つのは古麻呂だった。左に池主が控えている。背後に屯する男たちのなかに、十二、三に見える角髪頭の童子が混じっていた。
「そなたは――」
「千室だ」
馬を降りながら訊ねると童子が高く澄んだ声で名乗った。頬の豊かな色白の愛らしい顔立ちをしていた。坂上の妻とよく似た面差しに私はようやく思い至った。「よもや、稲公の子のあの千室か?」
「他に千室はなかろう?」
童子が不本意そうに言い返してくる。私は眉を顰めた。「そなたのような幼い者が何をしに来た」
「何とは心外な」と、童子は憤った。「あたうるかぎりの氏の男は武具をとって参じよと命じたのは氏上大人ではないか!」
「男はな。童子に来いとは命じておらぬ」
「だが、今家に男は私しかないのだ。大人のお仕えなさる皇子の一大事なのであろう? それほどの大事に参じなければ因幡の父が嘆く」
唇を捻じ曲げて言い返す童子の顔は頑なそのものだった。
右の袖の破れた藍の袍を纏った初老の男が声を立てて笑った。「勇ましい若子じゃ。さすがに佐保大納言の御孫君よの! 氏上大人、よいではないか。大人が御佩を継がれたのもこの年頃であろう?」
「では私の馳せ遣いをせよ。何があるかは知れぬが、矢面には決して出るなよ?」
「――相判り申した」
千室は不服そうに応えた。戦いをただ晴れやかなものと信じる幼い者の貌だ。私は初めて歌を捧げた夏の皇子を思い出した。
待つうちに人が更に増えた。
その場のまとめを古麻呂に任せ、千室を連れて門の内に入ると、蒼ざめた面持ちの奈良麻呂どのdが待ち受けていた。
「どうだ家持、兵士は集まりそうか?」
「すでに二十ばかりは来た。佐保に遣いをやったから、明日には百から二百は集まるだろう」
「そうか。さすがに益荒男の伴だな!」
「皇子のお加減は?」
「奥で答本忠節が診ている」
いつの間にか陽が傾いで内の門の柱が長い影を伸ばしていた。
栗駒を厩に返し、水を一椀乞うてから主屋へ上がると、廊の下や蔀戸の陰から女嬬や使部が心許なげに此方を盗み見ているのが判った。
砌の際に篝火を並べた廊を抜け、渡殿の先の奥の間に入ると、藍の刺繍を施した淡い黄の帳の向こうに燈が点っているのが判った。
「忠節、大伴の大人が参った」
「お静かに入られよ。ちょうど眼を醒まされた」
潰れやすい繭を掴むような心地でそっと帳を分けると、甘い蜜蝋の芳香に混じって饐えた汗の臭いがした。
私は病床の父の躰の臭いを思い出した。
皇子は高麗錦の縁の薄縁の上に横たわり、首の真下まで白絹の衾を掛けられていた。解いた長い黒髪を扇のように拡げ、額に汗を浮かべて、激しい遠駆けの後のように荒い息を吐いていらせられた。
「……――家持か?」
「いかにも」
枕辺に跪いて御顔を覗き込むと、皇子は御目を瞬かせ、力なく御手を伸ばして私の箙に触れようとなされた。
「……狩りか? 鹿を射に行くのか……?」
皇子の御声は弱々しかった。
黒く潤んだ眸が何処を見ているともつかない。
――ああ、皇子は夢を見ていらせられるのだ。ほんの数年前、まだ無邪気な童子であられたころの夢を。
私は唇が震えるのを堪えて笑いかけた。
「ええ、そうですとも。皇子のお帰りと聞きましたから、活道の岡で鹿狩りをすべく、八十伴の男を集めました」
熱く汗ばむ御手を握りしめて告げると皇子はまた瞬きをされた。
蕩けるように潤んでいた眸に白い光が点り、口許に揶揄うような笑みが浮かんだ。
「のう家持――」
皇子が重々しい声音で訊ねられた。
「なんですか皇子よ?」
「そなた、春にも鹿を射るのか?」
御声こそ深刻そうだったものの御目には確かに揶揄いめいた微笑が浮かんでいた。あどけない童子の顔ではなかった。
私が絶句していると、皇子は咳込むようにお笑いになり、熱い御手に微かに力を籠められた。
「すまんな家持――」
聞き取れないほど微かな声でそれだけ仰せられると、皇子は御目を閉じて寝息を立てられ始めた。
私は御手を衾の下にお収めし、帳の外に下がって皇子がまた眼を醒まされるときを待った。だが、そのときはついに訪れなかった。
恭仁の橘の邸に運び込まれた二日後の未明に安積皇子は息を引き取られた。
雨に打たれた若桜が咲かぬ間に散るかのように――




