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永遠の春  作者: 真魚
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第十三章 山桜 2

 秋の半ばまで竹田で過ごし、坂上の妻の元を訪ねてから恭仁へ戻るとすぐに、秋に左少弁へと進んだ八束大夫から歌集めのためにと邸に誘われた。


「この頃人が増えたゆえの、大人の仮屋では手狭であろう。我が邸を使われよ。菊の宴と称すれば皇子もお呼びできよう」

「みな花鬘をしてか?」

「ああ。官服は抜きにしよう」


 九月の末の宴の日は朝から雨が降っていた。

 四隅の燭に燈を入れた屋の内に導かれた皇子は角髪の結い目に紙を切った紅葉の造花を髪挿していた。

いつのまにやら三十を越えるほどにも集まった人の群れを上座から眺める皇子の佇まいは静謐だった。半ば瞼を伏せて静かに笑まれる面差しが金銅の仏の坐像を思わせた。

 その静けさに私は愕いた。

 つい一年前までの童子のような皇子、あのいとけなく朗らかな皇子とはまるで別人のようだ。


「皇子よ、御気分が優れぬか?」

 宴も酣になった頃、盃に酒を注ぎ足しがてら訊ねると、皇子は瞬きをし、目尻に皺をよせて笑った。「大事ない。些か暑いだけだ」

「では外で涼まれるか?」

 訊ねるなり皇子は眼を見張り、左右に視線を彷徨わせてから、意を決したように頷かれた。「うむ。では外で涼もう」


 皇子を導いて廊へ出ても止める声は掛からなかった。

 蔀戸の隙間から漏れる燈の筋が生糸のような雨脚を淡く光らせていた。雨の帳の向こうに池が見え、その先に築地が見えた。


「ああ、良い心地だ」

 皇子が欄干にもたれて喉を逸らされた。

 紙の紅葉が水に濡れて赤みを増していった。その様をじっと見つめていると、皇子が浅い溜息をつかれ、御目を伏せたまま訊ねられた。


「――のう家持、そなたは私に何を望んでいるのだ?」

「望む? 皇子にか?」

「ああ。こうして人が集うのはみな私の先々に望みを掛けているからであろう? 去年まで私になど目もくれなかった京人が、今は顔を見れば見え透いた嬉しがらせを言うてくる。この私に歌の才がある? 弓馬の技に優れている? 大嘘だ。みな嘘だ。あの者どもは私などどうでもよいのだ。ただ、私が先々与えるもののために――与えられるかもしれないもののために、媚び諂っているにすぎぬ」

 皇子が喉を鳴らして嗤われ、頬に垂れた雨の雫を手の甲で拭われた。「なあ家持、云うてみよ、何が望みだ。紫の衣を纏うことか?」


 私は応えに窮した。

 ここで口にするべきことは分かっていた。


 ――皇子よ、この家持だけは下心なくお仕えしております。


 そう口にすれば、この稚く傷ついた若い皇子は私を第一の寵臣として遇し続けるだろう。そして、遠からず日嗣に立たれ、いつか高御座に上ったときには、私に紫の衣を着せかけ、祖父や父と同じ大納言の官職を――それどころか、橘の大臣と同じ官職を与えてくださるかもしれない。


 私の心には間違いなくそんな功利心があった。


「どうした家持。なぜ何も言わぬ」

 皇子が焦れたように促した。

 私は定められた通りの台詞を口にしようとしたが、口からついて出たのは全く違う言葉だった。


「--皇子よ、わたくしは大伴の氏上でございます」

「それは知っている」

「いいえ、皇子は御存じではない。大伴の氏上であるということは、神代から宮の南の御門を護ってきた靫負の氏の上だということなのです」

「……神代からか?」

「そうです。わたくしの望みは、わたくしの一族が再び梓弓を手握り、剣大刀を腰に取り佩いて、遠い神祖(かもや)がしたように御門(みかど)に仕えることです。今の世ではそれが叶わぬ」

 話すうちに眦が熱くなってきた。

 皇子は呆気にとられたように私を見上げていたが、じきに肩を竦めてお笑いになられた。

「――さすがに益荒男の伴よな! その望みを、私がかなえられると?」

「もしもかなえていただければ、わたくしは幸いです」

 正直に告げて頭を下げると、皇子がまじめな声で呼んだ。

「家持、面をあげよ」

 見れば、皇子は私が初めて見る真剣な表情を浮かべていた。

「その望み、必ずかなえてやる」

 皇子はそう告げてお笑いになられた。


 晴れ晴れと明るい御顔だった。



 雨のかかる廊でしばらく涼まれた皇子は、板の間に戻ると気安げに八束大夫に声をかけ、口角泡を飛ばして歌の来歴を語り合う文人たちの言い合いのなかに混じっていかれた。


元の席に戻って空の盃を取ると、市原王が銚子を手にしてにじり寄ってきた。

「久しいな大伴の大人よ。皇子とは何を話された?」

「取り立てて何という程でも」

「この私を相手に隠し立てはなさるな。いろいろと縁の深い昔馴染みではないか」市原王は眼を糸のように細めて笑い、私の盃に酒を注ぎ足した。「大人は骰の遊びをなさるか?」

「賭博は禁じられていよう」

「酒宴も禁じられているぞ。誰も守っておらぬが」市原王が声を立てて笑い、腰帯に吊るした小袋から素焼きの骰を出した。

「私はこの頃皇后宮の写経所の写字生を束ねているのだが、これが手が掛かってな。やれ押し麦を毎日給せよだの衣を洗う暇をくれだの訴えが引きも切らぬし、夜にも筆を進めるというから燈明の油を与えれば、火明りの元で双六や賭け事に耽っている」

 市原王は白い手で骰を弄びながらぼやき、下から伺い見るように私の顔を覗き込んだ。「のう大人よ、馴れぬ賭け事に加わるなら一点張りは勧めぬ。骰の遊びは慎重になさった方がよい」

「私は賭博は好まぬ」

「そうであろうかな?」市原王が意味ありげに笑い、空の銚子を傾けがてら肩を摺り寄せてきた。「皇后宮の維摩会をご存知か?」

「十月十日の法会であろう? 藤原の祖の鎌足公が始めたとかいう」

「まさにそれよ。その法会を今年は鎌足公の命日の十六日に氏寺で催すのだ」

「山階寺でか。では、藤原の者たちがみな寧楽へ赴くのか?」

「あちらの大夫が如何なさるかは知れぬが」

市原王が皇子と談笑する八束大夫を横目で見やって口の端を歪めた。「氏の上たる南家の豊成大夫の呼び集めだからな、主だった家の者はみな参じるであろう。ことによれば大后や日嗣の姫御子さえお出でになるやもしれぬ。私はその会に召されているのだ」

「琴弾きとしてか?」

「ああ」市原王はにんまりと笑って頷き、酔った素振りで私の肩に腕を回してきた。「大人も参じるなら口を利くぞ? 歌い手は幾人あってもよい」

「忝い申し出だが」私は声が尖るのを堪えて応じた。「私は生憎歌い手ではない。要りようなら河原の乞食者を召し集めたらどうだ?」

 盃を支える指が震えるのを堪えて告げると、市原王は瞬きをし、くつくつと喉を鳴らして嗤った。「大人は今少し世の流れを学んだ方がよいぞ。行基法師も招かれている。会の講師としてな」

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