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永遠の春  作者: 真魚
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第九章 淡海 1

大雨のなかの道中は人馬を疲れさせた。

それでもどうにかたどり着いた伊賀郡の安保の頓宮(かりみや)で一夜を凌いだ翌朝、雨は上がっていたものの、伊勢へと下る山路が泥濘きっていたために馬がまた苦渋していた。

乾ききらない藁沓の中でかじかむ足の指の痛みを感じながら、私は昨日の帯刀の男がどの輿の近くにいるかを気にかけていたが、結局見いだせないまま、夕刻に伊勢の河口の頓宮へと着いてしまった。


伊賀の山地をくねり曲がりながら流れる雲出川が野へ出てすぐ先の南岸に築かれた宮は檜皮葺だった。赤褐色の木目を浮かべた白木の庇の縁から蜜の粒のような水の雫が滴っていた。


四百の騎兵は宮には到底入りきらないため、宮の西の川辺に広がる和遅野(わちの)と呼ばれる野に藍色の幕屋を張った。

その様はまるで行軍のようだった。つややかな黒駒に騎乗した南家の大夫が通ると、兵士(つわもの)たちが「大夫! 大夫!」と慕わしそうに声をあげていた。まるで氏上を迎えた族人のようだった。


 その夜はもう雨は降らず、翌日は曇天だった。

夜明けの頃、北の川面から湧き出だす淡い雲のような霧がわだかまる野の道を、白衣に身を包んで榊の枝を掲げた中臣と忌部の者たちが列をなして進んでいった。


同じ日の夜、広嗣が肥前の松浦で捕らえられたという報せが届いた。

帝は即座に処罰を命じられ、翌日に和遅野で狩りを催された。


 肥前で広嗣が斬られたという報せが届いたのは狩りの翌日だった。

同じ日からまた雨が降りはじめた。氷のように冷たい冬の長雨が庇を叩く音を聞きながら板張りの廊を簾で仕切っただけの房で七夜を過ごした後、ようやくに雨が上がった。

帝は出立を命じられた。

雲出川の南岸に沿う道を東へ進み、海辺に近い壱志の郡家で一夜を過ごした後に、右手に海を見ながら道を北へと進んだ。

大和で育った私にとって海から昇る朝日を見るのは奇妙な心地だった。曙光に燦めく沖の辺に志摩の海人の漕ぐらしい小舟の影が見えた。


午を過ぎると道は海辺を離れて北西の向きへと変わった。幾筋かの細い川を渡り、鈴鹿川の舟橋を渡ると、北岸の野に建てられたばかりの赤坂の頓宮に至った。

帝が行幸を定められてから築かれた頓宮はまだ木の香も新しかった。

すぐ西に鈴鹿の関のあるこの宮で帝は九日を過ごされ、陪従の諸臣の幾人かと騎兵とその子弟に位を賜った。騎兵はみな一級ずつ位をあげられ、大半が国許にいる筈のその父たちは二級ずつ賜ったらしい。

宮の外に幕営する騎兵たちに恩賜を報せに出向いたのは南家の大夫だった。朱の房をふんだんに飾った黒駒に騎乗する大夫が黄金の杏葉を煌めかせながら進んでいくと、藍の幕屋から人が飛び出しては雄叫びのような歓呼を浴びせた。


 授位の二日後に帝は赤坂を発たれ、桑名から美濃の多岐を経て、十二月の朔日、ついに不破の頓宮にたどり着かれた。

ここで帝は四百の騎兵を京へと帰され、内舎人だけを警護に着けて美濃の国府と不破の関とをご覧じられたあとで、夕に頓宮へと戻られ、土地の者たちに新羅楽と飛騨楽を演奏させた。管楽のあとには酒宴になった。五位以上の宮人が屋の内に招かれて酒を賜るなかで、吾ら内舎人は弓を握って庭や門を護った。


私は宴の催される大殿の南の軒下にいた。

月の細い夜だったが、軒には金銅の燈籠が下がり、真中の括れた池の辺に篝火が並んでいたために辺りは夕のように明るかった。背の後ろから笛の音と人の騒ぎが聴こえるなか、私は小声で氏族に伝わる古歌を口遊んだ。


外は凍えるほど寒かった。

私自身の吐く息が夜気を白く曇らせていた。

池の辺に並ぶ篝火の焔が風になぶられて傾ぐ様を眺めるともなく眺めながら同じ言葉を繰り返していたとき、不意に背の後ろから笑いを含んだ声が掛かった。

「なんと風雅な衛士があると思えば――、そこにおわすは佐保の氏上大人かの?」

 振り仰ぐと廊の朱塗りの欄干に五位の印たる緋の衣の大夫がもたれていた。

軒の一対の燈籠から射す金色の光に照らされた貌をしばらく見あげていると、ようやくに誰であるのかが分かった。

「八束どのか?」

「いかにも」

 声の主は藤原北家の八束大夫だった。

藤原の生まれながら南家の同族と折り合いが悪く、橘の大臣の催される宴席にしばしば顔を出していたため、私とは親しくないこともなかった。

黒い羅の冠からほつれ毛を覗かせ、右手に土器の杯を手にしたままの八束大夫はだいぶ酔っているようだった。杯の中身を一口すすり、私にも無理やり勧めてから、欄干に両腕を預けて坐りこんだ。

「外は涼しゅうてよいのう! 中は息苦しくてかなわぬ」

「私は寒いぞ。酒無しだからの」

「それはすまなんだ」大夫は声を立てて笑い、銚子をもつ手つきを拵えて注ぐ真似をした。

「では氏上大人、一献差し上げよう」

「忝い」

私が受け取る手真似を返すと、八束大夫はけらけらと童子のように笑い、不意に舌打ちをしたかと思うと、軒下の砌へと空の杯を叩きつけて毀した。

「――如何なされた?」

「如何も何もあろうか。大君は一体何を考えておいでなのだ? 南家の大夫に四百もの騎兵をつけて京へ帰されるなど!」

「仲麻呂大夫が帝に叛くと案じているのか?」

「仲麻呂がではない。南家がだ。家持どの、そなた今の京の留守居役が誰か、知らぬわけではあるまいな?」

「無論知っている」私はむっとして答えた。「鈴鹿王と、仲麻呂大夫の兄たる南家の豊成大夫であろう?」

「知っていて何故そううすぼんやりとしておる!? 三世の皇孫とはいえ、鈴鹿王はかの高市皇子のお子、朝廷を呪詛し奉った長屋の大臣の同母弟にあたるのだぞ? 南家の兄弟があの王を押し立てて京を塞いだら我々は一体どう帰ればよいのだ?」

「東国の兵を集めて淡海から攻める他なかろうな」

「駅鈴も官符もなしにか?」

「浄御原の帝はそうなされたのだろう。君はその先例に倣いたいのかもしれん」

 何の気なしに口にすると、八束どのが目を見開き、見知らぬ鳥でも見るようにつくづくと私を眺めた。

「如何なされた?」

「あいや、さすがに益荒男の伴よな。よく御心が判る」

「判りはせぬよ。御声を知らぬ君の心がどうして判ろうか」

「御声を聞いても御心は判らぬ。私にはまるで判らぬ!」

 八束大夫は焦れた童子のように言い募り、乱れた襟を正して冠を被り直すと、顎の下で紐を結びながら溜息をついた。「さて戻らねばなあ。外は涼しゅうてよいが」


 

 騎兵を京へ帰した二日後の朝に帝は不破を発たれた。

北には伊吹山が、南には鈴鹿と養老の山並みが迫る隘路を塞ぐように築かれた関の土塁の上に藍と朱の幡が並んで、御輿が関門の前に至ると楼台の上で鼓が鳴らされ、小角の音とともに鋲打ちの大扉が開いていった。

浄御原の帝もこのように関を通られたのだろうかと私は夢想した。

冬風に軍旗をたなびかせ、虎の咆哮のような小角の音と雷のような鼓の音とともに兵を進められたのだろうかと。


 祖父の保麿はそのとき大和で君の還りを待ち受けていた。

竜の環の剣を腰に佩き、靫を負い、鞆を手に嵌め、丈より長い弓を握って外の門の台に立つ祖父の姿を想うと胸が高鳴った。

いっそこのまま本当に南家の兄弟が謀反を起こして、我々だけが君を御守りして京を攻めるのであればどれほど悦ばしいだろうか! 


――もしもそんなことになったら、奈良坂沿いに邸をかまえるわれら佐保大伴の一族はどこよりもお役に立てよう。先んじて坂上に報せをやり、同母弟に指揮を執らせて、大和じゅうの族人を邸に集わせるのだ。私は彼らを率いて君を京へとお戻しする――そしてわれら大伴の氏は再び栄えるのだ――……



そんなことを想いながら山間の狭路を進むうちに、夕の頃、不意に目の前が開けて、甘く香しい水の匂いを含んだ風が吹き付けてきた。


見れば左手を流れる渓流がすぐ先で広い川と合わさり、その川がくねり曲がりながら流れる先に広々とした湖が開けていた。

水面は赤く燦めいていた。

対岸に陽が沈もうとしていのだ。

左を歩む県犬養吉男が心許なげに呟いた。

「――淡海、か?」

「であろうな」

「此方から見るのはおかしなものだな。あれが日枝の峰であろうか?」

 吉男の示す対岸の山影に目を向けたとき、前を行く御輿が止まり、天蓋の頂を飾る黄金の鳳が少しずつ下がってきた。

担い手たちが御輿を降ろしているのだ。

何事かと見入るうちに下降が止まり、黄の地に碧い竜の刺繍を施した帳が内側から分かれた。

そして目の前に帝が降り立たれたのだった。


 帝は金糸で菱の紋様を縫い取った朱赤の衣を召し、碧い石を連ねた帯を結ばれ、黒い羅の冠の後ろから、金の緒に赤い瑪瑙の珠を貫いた飾りを垂らしていらせられた。

担い手たちが平伏して額を地に擦りつけた。その様を一瞥されてから、帝は御手を額にかざして湖を見晴るかされた。



「――彼岸(かのきし)が大津の宮か?」


 帝が湖に御目を向けられたまま問われた。

 その場の誰に訊ねているともつかない。

 御目はただ湖だけを――水面に映る落日の輝きだけを見つめていらせられた。

傍らの吉男を横目で見やると、応えよ、というように顎で促された。

私は乾いた唇を舐めた。

「彼方に日枝の峰が見え申す。志賀の京はその左かと」

「左か」

 君が御首を私の告げた向きへと動かされた。

冠の珠が触れ合って幽かな音を立てた。君はそのまま長いこと対岸を眺めていらせられたが、じきに短く呟かれた。

「燃えているようだ」

 君はそれきり何も仰せにならず、珠の音を響かせて御輿へ戻っていかれた。


 私はそのとき初めて君の御声を聞いた。

 寂しい御声だった。

 切り立つ高い峰の頂にただ一人立つ御方の、寂しい、さびしい御声だった――……


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