5-8
ゴロゴロと塹壕の底を転がり、カリンは体勢を立て直すと素早く銃を構える。
「こっちは泥沼じゃないんだ」
少しは気が楽かな。と独り言をつぶやきながらカリンは腐った木の板を踏みながら壁に身体を預けるようにして立ち上がった。
「カリン」
ふと、霧の中から名前を呼ばれ、カリンは反射的に銃を向け……驚愕に瞳を見開いたままゆっくりと腕を降ろした。
「ま、ま?」
カリンによく似た赤い瞳に線の細い印象のある美女がゆっくりと霧の中から歩み出てきた。
目の前に現れたのは、亡くなった母の姿そのものだった。
けれど、それが現実であるはずがない。カリンの胸は早鐘のように脈打ち、冷たい汗が背筋を伝った。
「なんで……」
カリンの声は震え、その場に立ち尽くしてしまう。
目の前の存在は、確かに亡き母の面影をそのまま映し出していた。
「こんなはずがない……どうして、そんな……」
ようやく絞り出した声は掠れていた。
霧の中から現れた女性。母は、何も答えない。
ただ、ゆっくりと一歩ずつ霧をかき分けるようにカリンに近づいてくる。
薄い唇が記憶のままの優しい微笑みをたたえたまま何かを囁くように動いているが、言葉は音にならない。
「ママ……」
カリンは伸ばされた手に自身の手のひらをそっと添える。
無意識のうちに大きな目から溢れ、銃はホルスターに戻ってしまっていた。
添えた手がかじかむような冷たさに包まれていを感じたが、目の前の光景から視線を逸らせない。
優しく穏やかに微笑んだまま、カリンの頬に触れていた右手薬指のリングが光る。
記憶の片隅に引っかかる違和感。だが、それを言葉にする前に彼女の瞳に吸い込まれた。
「ごめんなさい」
カリンが想いごと振り払うように力強く手を振りぬくと、母はまるで溶けるように消えていった。
「あんたはママじゃない。ママはレフティだった」
自身の左頬にそっと触れ、血のにじむ引っかき傷をなぞりながらカリンは自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
霧はまだ濃く漂い、涙で滲んだ視界を覆っている。
だが、先ほどの「母」の面影が消えた後の空間は冷たく静まり返っていた。
「レフティ……?」
小さくつぶやきながら、腐った木の板を踏むとぐじゅっと不快な感覚を伝えてくる。
定期的に一斉射撃の銃声が頭上で響き、鼓膜を引き裂くように考えをかき乱す。
「ロイ?」
合間に聞きなれた銃声が聞こえ、反対の塹壕に飛び込んだはずの男の名前を呟いた。
「……反対?」
上で銃撃してきた女達。
彼女たちが銃を構えていたのは……左手だ。
腐って崩れた支柱の隙間へ身体をねじ込んで通り抜けながら、頭の中を整理するように口を動かす。
「左利きの軍隊じゃないなら……反対?」
キラっと塹壕の奥で何かが光ったのに気づき、カリンは再びホルスターに腕を伸ばす。
「何かある?」
光に導かれるように塹壕の中、兵士たちがたむろしていたのであろうちょっとした広場のようなポイントへ足を踏み入れる。
「……嘘」
霞んだ空間から歩み出た姿に、カリンは思わずつぶやいていた。
シルバーブロンドの髪に、母親似の大きな瞳。
「わ、私……」
まるで鏡写しの様に現れたもう一人のカリン。だが、大きく異なっているのは、胸から止めどなく流れるどす黒い液体。
日に焼けた肌は青白く、形の良い唇の端からは血のあぶくも吹き出している。
焦点の合わない生気のない瞳に手の震えがいっそう激しくなり、心臓が口から飛び出しそうな程早鐘をうつ。
思わずカリンがホルスターに手を伸ばす。と、目の前のカリンもスッと銃に手を添えた。
「早撃ち勝負、ってわけ?」
緊張でカラカラになった口内を割り開くようにそんな言葉がこぼれ出た。
早撃ちなら自信がある。
だが、目の前の鏡写しのような相手がもし自分と同等の技量があるのなら?
「鏡?」
ふと、カリンの脳内にアイデアが浮かんだ。
それは普段だったら荒唐無稽とすぐにかき消してしまうものだったが、カリンの生存本能がバラバラの絵柄のパズルのピースとピースを掛け合わせるように脳内を駆け巡る。
ゆっくりとカリンは唇をかみしめ、震える指先を落ち着かせた。
「抜きなよ……」
足を肩幅に開いて腰を落とし、緊張と恐怖に味付けされた胃液を飲み込む。
周囲では変わらず銃声が響いているはずだが、カリンたちの間には緊張感のある静寂だけが残っていた。
その硬直は一瞬だったか、あるいは数分だったのか。
とにかく、カリンには永遠に思えるた瞬間は、パンッという間の抜けた破裂音と共にあっけなく終わりを告げた。
「ーーーっう!!!」
親指を滑る撃鉄の感触と激しい反動。
まったく同じヒップショットの構えのまま、両者の銃口から硝煙が立ち上り……
痛みに保持できなくなったシングルアクションコヴェルが腐った木の板に沈み込むように落ち、続いてカリン自身もドサッと地面に崩れ落ちた。
霧の中から現れたカリンは無感情にホルスターに銃を戻し……次の瞬間、背後から湧き上がった力の奔流にかき消されるように霧散した。
「カリン!」
どこか遠くで聞こえる爆音の中から、カリンの耳は聞きなれた心地よい声を拾い上げた。
「……ロイ」
うわごとのようにつぶやいたカリンの霞む視界へ、ロイが飛び込んできて覆いかぶさる。
まるで万年の氷が一瞬で溶け出すかのような、冷たさと熱さが混ざり合う奔流が暴れ狂い、局地的な大嵐のように純粋な魔力の暴力となって周囲のものすべてに襲い掛かる。
カリンは自身を庇うロイの温かさに身をゆだねるように意識を手放した。




