第二章 灰燼の宰相 後篇
ペイジがええ格好しいをしようとして失敗する話と
リアーデがあんまり頼りにならなそうな味方を得る話です。
ガラスに先導してもらい、リアーデは茶会が開かれるという小広間( ホール)へと急いだ。
前を行く女官の足取りはほとんど小走りとなっており、後ろを守る護衛からは
せき立てられるようであった。
「急に出席を決められるとは無理を仰いますこと」
ガラスは額に青筋を立てていた。
(いや、決めたのは私じゃないから…)
そう言いたくて言えないリアーデである。辞退できるものなら辞退したい。
ドレンデラ宮廷の奥様方や御嬢様方と仲良くできるはずもない。
あちらはカザンヌによるハルマヤ地方侵攻で親兄弟を亡くしているのだから。
「ガラス…これは少し大袈裟では?」
宰相の執務室から自室に戻って、着付けされたのは随分かっちりとしたドレスだった。
日中に胸元や足首を露出させる服は論外としても、季節が夏に向かおうとしている時に
補正下着を締め、首まで留めた厚手のドレスとはいかがなものか。
おまけに素手でいるのは“はしたない”そうで、室内だというのに手袋を渡される。
それも、手首からの短いもので十分だろうに、なぜか肘まで長さがあるものを
付けろと言われ…訳が分からない。
しかし、女官はリアーデの疑問に一切答えず、茶会用の支度を整えてしまった。
髪は“未婚の姫君なのですから”と流したまま。
正直、暑苦しいので纏めたいのだがこれも許されず。
そして、
「小広間には私もブランも入室することができません。
ご自分でご自分の身を処してくださいませ」
と最後に手渡されたのが、やたら枠組がガッチリしたやや大ぶりの扇子であった。
つまり自分の身は自分で守れ、ということで。
(何かあると言っているものじゃないの)
とはいえ、怖じ気づいて逃げ出す訳にはいかないのだ。
リアーデは扇子を握り締め、案内に従って戦地に、いや茶会の席に足を踏み入れた。
「カザンヌ国リアーデ姫、お越しにございます」
侍従の声が小広間に響くと、その場にいた者たちが一斉に振り返る。
小規模な茶会と聞いていたが、ざっと見て30名程はいようか。
「リアーデにございます。本日はお招きいただきましてありがとうございます」
迷ったが大陸共通語ではなく、ドレンデラ語で挨拶した。
ここ数日教わっている講師からは「発音が今一つ」と注意されているが、仕方ない。
「ようこそリアーデ様。わたくしはアメリア・デルサイア・サガラよ。
会を代表して貴女を歓迎します」
リアーデは黙って頭を下げる…他に選択肢はない。
(あの根性悪宰相っ!)
平静を装いつつ、内心では毒づく。
ドレンデラ貴族については学び始めたばかりだが、サガラ侯爵の名は記憶にあった。
王国有数の資産家であるが、先の侵攻に巻き込まれ侯爵と上の令嬢が死亡している。
「遠路遙々お越しいただいた姫君にわたくしたちから“特別な”おもてなしを
差し上げたいと存じますの」
(ほうら、おいでなすった)
侯爵夫人に手を引かれ、リアーデは小広間の中央に連れて行かれた。
茶会の参加者たちは、数歩距離を置いたところでグルリと異国の姫を取り囲む。
「それでは皆さま、歓迎会を始めましょう!」
侯爵夫人がぱっと身を翻す。
その途端、周囲からリアーデに向かって何かが降り注がれた。
(小石…?)
目も開けられぬほどの勢いで、雨あられかのごとく投げつけられる。
八方を塞がれ、どこにも逃げ場はない。
小さな粒なので大怪我をする心配はないが、地味に痛いし、素肌に当たったところは
痣になりそうだ。
「大好きな紫水晶を贈ってさしあげますわ」
「心ゆくまでお受け取りあそばして」
「まだこちらにもございますわよ!」
「それ!」
レクサンスとドレンデラ語が重なり合うようにして響く。
どちらも言葉遣いこそ上品だが、悪意や敵意をたっぷりと含んでいる。
リアーデに降り注ぐのは、歓迎の花吹雪ではなく、紫水晶の礫であった。
その量たるや、半端なものではない。
幾つか大袋が用意されているようで、ドレンデラ宮廷のやんごとなき貴婦人たちは
掬えるだけ掬っては、それをリアーデに向けて放っているようであった。
(さすが大国ドレンデラ?)
金剛石や紅玉に比べれば、紫水晶は高価な石ではない。
しかし、雨を降らす程の量となれば、それなりの出費となるはずだ。
もっとも、大国の大貴族にとって、それは微々たるものなのだろう。
無数の礫を受けながら、リアーデはその場で不動の姿勢を貫いた。
例えば、わああと泣き出す、とか、パタリと気絶する、とか。
そんな演技をちらっと考えたが、なぜかそのような“逃げ”を打つ気がしなかった。
「御髪に紫水晶が映えて素晴らしいわ」
「お召し物にもお掛けしますわね」
「こちらにも有ったほうがよろしくてよ」
まだまだ貴石による洗礼は続く。一体、どれだけ準備したものか。
周囲の床には紫水晶が薄っら積もりかけていた。
出席者の何名かは明らかに狙いを定め、力一杯投げつけてきていた。
至近距離からやられると、衝撃が大きいので、リアーデは注意深く様子を伺いながら
“要注意人物”を見定めると、さりげなく、なにげなく、扇子を使って最低限の
防御を行った。
その素晴らしい“熱烈大歓迎”がようやく終わりを迎える頃。
体力気力とも磨り減ったが、そんな素振りは見せず、リアーデは優雅に
ドレンデラ式の礼を取った。
故国の作法とは少し違う。指を揃えて左右に手を起き、左足を床に摺るように下げ
同時に頭を垂れる。ただそれだけの所作だが、礼法の講師曰わく時機と
優雅さが勝負なのだとか。
カザンヌにいた頃は「この子は男で苦労する」という祖母の預言?により、並みの
令嬢以上の教養教育を施されてきたが、ドレンデラの礼法講師には「虐めか」
と思う位ダメ出しをされてきた。その成果を見よ、という訳ではないが、
紫水晶の礫のせいで足元が滑り易くなっていても、身体を傾げた途端に肩や頭から
ポロポロ礫が零れ落ちても平静を保っていられた。
売られた喧嘩を買うつもりはない。
自分から喧嘩を売るつもりもない。
ただ、己に恥じるところがないならば、胸を張って頭を上げれば良い。
カザンヌの姫はドレンデラ宮廷の貴婦人たちの前で美しく微笑んだ。
相手を見下す笑みでも、相手に媚びへつらう笑みでもない。
どんな嵐にも負けないような力強い、それでいて艶やかな笑み。
(………っ!)
周囲が息を飲む中、リアーデが花綻ぶように唇を開いた。
「このような典雅な、そしてまた思いやりに満ちあふれた歓迎をいただきまして、
感激いたしております。
敗戦国の姫と侮ることもなく、このように温かくもてなしてくださるとは。
さすが大国ドレンデラ、皆さまの懐の深さに幾重にも御礼申し上げます」
(言い過ぎかな…)
つらつら礼を述べたてはみたものの、多少でも知恵の回る者なら分かるだろう。
(こんな野蛮な行動を取るなんて大国ドレンデラの宮廷も大したことないわね。
みみっちい性格の人たちだこと、嫌になっちゃう)
と、取りようによってはこんな正反対の意味合いになってしまうだろう。
リアーデとしては、相手が怒りで我を忘れたりしないギリギリの線を見極めなければ
ならない。なおかつ、自分たちがしている行為が貴族のご婦人として破廉恥なもので
あることそれとなく悟らせる必要がある。
茶会の女主人役であるサガラ侯爵夫人は怒りでブルブルと震えながら、
リアーデを睨み付けていた。泣き喚いて醜態を晒すと見込んでいた小娘が
びくともしないので、夫人の“愉しい”計画に支障が生じたのだ。
「カザンヌの姫君は随分と気丈な方ですこと」
侯爵夫人の嫌味もリアーデにとっては誉め言葉に聞こえた。
幸か不幸かこの手の矜持ばかりは天井知らずで、実は中身の空っぽなご婦人方には
慣れているのだ…カザンヌ王妃の追従者たちで。
しかし、夫人の方もこのまま引き下がることはできない相談だった。
「あら、わたくしとしたことが、一つ大事なものを忘れていたわ」
そう言って、袋の底から出してきたのは、またも紫水晶。
しかし成人男性の握り拳ほどの大きさで、研磨されていない原石そのものであった。
それを力一杯投げつけられた場合、額はパックリ割れ、大出血で失神することに
なるだろう。運が悪ければそのままあの世行きである。
(これは扇子の出番かな)
心情的には扇子で打ち返したい気もするが、貴石の重量からして不可能。
しかも、こちらからの攻撃は許されない情勢だ。
「さあ、お受け取りあそばしてっ!」
(そうくるか)
顔を狙ってくるかと思ったが、サガラ侯爵夫人が狙ったのは胸元
…それも心の臓付近であった。とっさに扇子を翻すも遅れをとってしまう。
がつんと鈍い音が響き、次いで弾かれた原石が床に転がって8つに砕けた。
思わず目を瞑って身構えたリアーデだが、覚悟していた衝撃も痛みもなかった。
(んんん……?)
恐る恐る周囲を伺うと、最初に目に入ったのは灰色の髪であった。
リアーデに背を向ける形で立っていたのは…顔が見えなくとも間違えようのない、
ドレンデラ国宰相ペイジであった。
「さ、宰相閣下!」
サガラ侯爵夫人を筆頭に何名かの夫人が一斉に悲鳴を上げる。紫水晶の原石を
身に受けたのはカザンヌの姫ではなく、ドレンデラの宰相であったのだ。
服の袖に隠れて見えないが、確実に痣になっているだろうし、場合によっては
骨折しているかもしれない。
「お戯れが過ぎますぞ、侯爵夫人」
死神もかくやという、ぞっとするような冷たい声でペイジは茶会の主催者を窘めた。
「ドレンデラの貴婦人が寄ってたかって、異国の姫を虐めている…などと
不名誉な噂が立ったらどうなさいます?」
「わたくしたちは虐めていた訳ではありませんわ!
リアーデ様の大好きな紫水晶で歓迎していただけです」
「小さな粒ならともかく、これが当たったらどうなるか、予想もしなっかったと
言うのですか?」
“これ”というところで、先ほど8つに割れたばかりの原石を宰相は足で踏みしだいた。
「なぜ宰相閣下ともあろう者が、そんな小娘を庇われますの?その娘のせいで…」
「ドレンデラ宮廷人の“品位”が問われる事態には宰相として口出しせざるを
えないのですよ、侯爵夫人」
宰相の表情がどんどん険しくなるにつれ茶会の雰囲気も冷ややかなものに
変化してゆく。その場にいた者たちは宰相の雷が今しも落ちるのではとハラハラして
見守っていた。
サガラ侯爵夫人は油断していたのだ。宰相が自分に恥をかかせるはずはないと。
しかし、それこそが宰相の思うつぼで、最近目に余る振る舞いが増えた侯爵夫人を
叩く絶好の機会を見逃すはずはない。
(そろそろ、この金ヅル婆とも縁を切るか…)
そんな思惑を実行に移そうとしたまさに時、足元でフワリと動く気配があった。
一瞬、犬でも紛れこんだのかと思ったが、宮中の茶会にそんな不手際が
あるはずもない。視線をやったその先に…宰相は信じがたいものを見た。
「何を…やっている?」
聞かれた本人は気がつかないのか、せっせと身体を動かしている。
「リアーデ!」
ペイジの怒鳴り声に、ようやくカザンヌの姫は顔を上げ、彼を見た。
「何をなさっているのです?」
“ドレンデラ宮廷人の品位”を口にした手前、流石にまずいと思ったのか宰相は
言葉遣いを改めて尋ねた。
「紫水晶を拾っているのです」
何を分かりきったことを、と冷めた態度で答えるとリアーデは再び作業に戻った。
茶会の小広間がしんとなる。
重苦しい沈黙が支配する中、リアーデだけが腰をかがめ、そこら中に散りばめられた
紫水晶を回収してゆく。いつの間にやら、もともと使われていた麻袋を入手し、
扇子の先を使って器用に掬い上げてゆく。
「姫の仕事は掃除ではない」
恐ろしく不機嫌な声が灰燼に帰したような場所に轟いた。
「掃除ではありませんわ、宰相閣下」
顔にかかった黒髪を掻き上げると、リアーデはしっかり背筋を伸ばした。
「この紫水晶は皆さまからの心づくしです。一粒残らず有り難く頂戴いたします。
閣下にご尽力いただいて、換金した後は1リントも残さず全てハルマヤ地方に
送っていただきたく存じます。
もっと正確に申せばハルマヤで働いているカザンヌの“特別労働者”たちに」
リントはドレンドラ貨幣の最小単位。自分の取り分は要らないということだ。
お願いしますね、とリアーデはそこでペイジに向かって艶やかに微笑んでみせた。
一晩中責めても堕ちなかった小娘は敵国の宮廷で宰相にも居並ぶ貴婦人たちにも
臆することなく、毅然としていた。
そうしてから周囲が固まっていることにも頓着せず、紫水晶回収に専念する。
不思議と…カザンヌの姫が腰をかがめても、床に手をついても、卑しいとか
みっともないとい印象を与えなかった。
むしろ異国の姫が自国の民を思って懸命になる姿は、良心を幾ばくかでも残す者、
貴族としての誇りを幾ばくかでも持つ者に己が行動を恥じさせた。
「立ちなさい、リアーデ」
言葉だけでなく、手を取ってペイジはカザンヌの姫を止めた。
「あとは侍女たちに集めさせる。控えの間にガラスがいるから、髪と服を整えたら
今日のところは部屋に戻りなさい」
「…かしこまりました」
言いことは山ほどあったが、宰相の押し殺した怒りがじわりじわりと伝わってきて、
リアーデは承諾するしかなかった。
もっと分かりやすく、赤鬼状態になっている侯爵夫人にも一礼して退出する。
カザンヌの姫が扉に向かって歩を進めると、さっと波が引くように道ができた。
「皆さま、お先に。本日は有り難うございました」
最後にきちんとドレンデラ語で挨拶するのも忘れない。
こうしてリアーデの初顔合わせは終わったのであるが…控えの間では息つくことも
できなかった。
「お早いお戻りですこと」
「宰相閣下からお許しいただいて退出したわ」
「ひどい有り様ですこと。茶会と聞いておりましたが、運動会の間違いでしたか」
「綺麗に支度してもらったのに悪かったわね」
早速に始まるガラスのネチネチ嫌み攻撃にウンザリしつつ、感謝もしている。
たぶん、この有能な女官は何が起こるかをある程度予想していたのだ。
その上であんなかっちりした格好をさせた。髪をまとめ上げず流していたのも、
首筋の急所を狙いにくくする目的だったのかもしれない。
「…お怪我は?」
リアーデを椅子に座らせて、髪を整えながらガラスは漸く気遣いらしきものを口にした。
「ないわ。ありがとう」
紫水晶の礫を受けて多少の打ち身や擂り傷はあるものの、いずれも大したものでは
なかった。しかし、お礼を言ったのはまずかったらしい。
「服に血の染みがなくて助かります。
ああ、でも、どうして扇子の先がこれほど傷んでいるのかしら」
心配なのは服や小道具だと言わんばかりである。
「…申し訳ありません」
螺鈿細工の高価な扇子をよもや箒代わりにして使っていましたなどと告白できない。
リアーデはしゅんとして見せた(もちろん演技だが)。
どうにか表を歩ける程度に身なりを整えて、いざ帰ろうとしたところで、
小さく扉を叩く音がした。
すわ新手かと身構えたところに、現れたのは二人のうら若き御令嬢であった。
金髪に碧眼の少しばかりふっくらした令嬢と
赤髪に茶眼の少しばかりひょろりとした令嬢。どちらかもリアーデより若い。
まだドレンデラ社交界に御披露目したばかりという年齢ではなかろうか。
「サガラ家のパメラです。先ほどは母が失礼いたしました」
金髪の令嬢がまず名乗りを上げ、おずおずと頭を下げた。
「オトワ家のアリシアです。こちらをまだお渡ししていなかったので」
赤髪の令嬢がそう言って、差し出してきたのは、一握りの紫水晶だった。
金髪の令嬢にも同じように紫水晶が握られている。
リアーデには分かった。彼女たちはドレンデラ宮廷の“良心”だ。
茶会の貴婦人たちはリアーデに対して、一見似て非なる態度を示していた。
サガラ侯爵夫人に従い、憎悪も露わに紫水晶を叩きつける人たち。
リアーデの頭上高く投げて、直接衝撃を与えるのを避けた人たち。
足元を狙ったふりをして、実は当てずに床に撒き散らした人たち。
そして…紫水晶を握りしめたまま、最後まで投げなかった人たち。
「有り難く頂戴します」
リアーデは二人の令嬢から紫水晶を受け取ると袋の中に丁寧に収めた。
「母の振る舞いをお許しください。父と姉がハルマヤで亡くし動転しているのです」
パメラが気にしている様子なので、リアーデとしては大人の態度をとらざるを
えなかった。
「お気の毒なことです。カザンヌの者など見たくもなかったでしょうに
…申し訳なく思いますわ」
「でも、あんなやり方は違うわ」
そう言って口を尖らすところに、パメラはまだ子どもらしさを残している。
隣に立つアリシアもうん、うんと素直に頷いていた。
二人とも潔癖な性質のご令嬢のようであった。
もっとも一人は主催者の娘であったし、もう一人は…リアーデが学んだ内容が
間違っていなければ、公爵家の令嬢だ。どちらも睨みのきく権門なので、
他に同調する必要もなく、強気でいられるのかもしれない。
少しだけ場が打ち解けたところで、リアーデは少しばかり茶会で引っかかったことを
サガラ家のパメラに尋ねてみた。
「もしかして…お亡くなりになったお姉さまとは、宰相閣下の婚約者でいらした方?」
結婚する予定であった侯爵家の娘がハルマヤで命を落としたと聞いている。
加えて、先ほどサガラ侯爵夫人の宰相に対する態度には独特の親しさというか、
馴れ馴れしさがあった。
「まぁ、ご存じでしたの?」
パメラの反応がリアーデの推測を裏付ける。そこにすかさずアリシアが訂正を入れた。
「でも正式に婚約してはいらっしゃらなかったわ」
「そうね、その通りよ。
わたくしから見ても、熱心だったのは母と姉だけで、宰相閣下の方はあまり
…たぶん内心はお困りだったのではないかしら。
だからリアーデ様がお気になさることはありませんのよ。
わたくしは邪魔するつもりはありませんから!」
…話がおかしな方向に流れた。
ペイジが正式に婚約していたかどうか、亡くなった令嬢に愛情を抱いていたかどうか、
リアーデにとってどうでも良いことだ。
(別に気にしないし…“邪魔”とはなんだろう?)
何やら嫌な予感がしてきた。
「本当に。伯父上のあんな姿は始めて見ましたわ。身を呈して庇われるなんて、
噂通りリアーデ姫のことを大切に想われているのですね」
今度こそリアーデの目が点になった。
アリシアは何と言った?
伯父?身を呈して?噂?大切に…?
(はぁあああ???)
あまりと言えばあまりの内容にどこから指摘してよいかも分からない。
「ええと、伯父?」
倒れそうになるのを何とか踏みとどまり、取り敢えず最初の疑問だけ口にしてみる。
後の部分は怖すぎて聞けない。
「叔父といっても義理の伯父ですけど。わたくしの伯母が宰相閣下の奥方でしたので」
「…ご結婚なさっていたのですね」
礼法の講師は宰相に関する情報だけ秘匿しているようだが、別に驚くことでもない。
齢30過ぎて、国の要職に就いている男だ。結婚していない方がむしろおかしい。
「リアーデ様、リアーデ様。伯母とは完全に政略結婚でしたし、第一、もう十年も
前に亡くなっています。お気を確かに。わたくしもパメラともども応援しますから!」
繰り返すが、宰相に妻がいようがいまいが、その妻が生きていようが死んでいようが
リアーデには関係ない。どうでもよい。アリシアは一体何を“応援する”というのか。
「あの…“噂”というのは?」
どうも避けては通れないらしい。
リアーデが覚悟を決めて発した問いにパメラが瞳をキラリとさせた。
「宰相閣下がカザンヌの姫に一目惚れして、王宮内でも堅く自分の庇護下に置いて、
どなたにも会わせないようにしているという噂です。まさかと思いましたけど、
実際今日まで招待状の類は全て宰相閣下が握り潰していたようですし」
「よほど心配でしたのね。婦人会に殿方は足を踏み入れないのが原則ですのに、
わざわざ様子を見にいらっしゃるなんて。そしてリアーデ様が危ないと知るや
伯父上自ら盾となって。わたくし思わず胸がときめいてしまいましたわ」
きゃあと手に手を取ってはしゃぐ若き令嬢二名にリアーデは眩暈を覚えた。
…前言撤回。彼女たちはドレンデラ宮廷の“良心”ではない。
単なる乙女思考の持ち主だ。都合良く現実を脚色する桃色思考の持ち主たちだ。
(あのペイジが私に一目惚れ?ありえないっ!)
初日に受けた暴言と暴行の数々を全てぶちまけてやりたかった。
夢見がちな娘たちに少しは“世の中”というものを教えてやりたい。
「リアーデ様、わたくしたち、もう友人でしてよ」
「お困りのことがあったら何でも相談してくださいね」
困るのは貴女たちの頭の中身だ。
お願いだから自分のことは放っておいてくれ、と叫びたい。
しかし、リアーデがこの時できたこのは、2人の手を握りしめ、乾いた笑みを
返すことだけだった。
「早速にお味方ができてよろしゅうございましたわね」
控えの間では壁に同化していたガラスであるが、リアーデを送って部屋に戻るなり、
嫌味攻撃を再開した。
「どこにでも…ああいうご令嬢はいらっしゃるのね」
愛だの恋だのという“妄想”に真実とはほど遠い物語を創り上げる。
当事者の意向を全く無視する形で…疲労困憊でリアーデは長椅子の上で潰れた。
行儀悪いと怒られても構うものか。
「これからドレンデラ語の先生をお呼びしますからね。
そのおかしな発音を一刻も早く、お直しくださいませ」
(鬼……!)
茶会に出たからと言って、授業が無条件免除になる訳ではないらしい。
その後の修正された予定を聞いてリアーデは遠い目をすることになった。
*** *** *** *** *** ***
その夜、ペイジが寝室を訪うことをリアーデは半ば予想していた。
パメラやアリシアが胸ときめかすような甘ったるい理由からではない。
宰相は茶会の件で腹を立てていた。それも激怒といってよいほどに。
そんな彼が彼女に安らかな眠りなど与えてくれるはず、ない。
「包帯が緩んだ。巻き直せ」
勝手に寝台に上がりこんだ宰相は不機嫌な様子を隠しもせずリアーデの前に
左手を突き出した。
「そう言えばまだ礼を聞いていないぞ」
無言で手当を始めるリアーデにペイジは苛々をぶつけた。
「礼?ああ、紫水晶の換金とハルマヤへの送金に関してはお手数をおかけいたします」
「この怪我のことだ!お前を庇って負ったのだぞ?」
紫水晶の塊が激突した腕は骨折こそ免れたものの、酷く腫れている。
しばらく指を動かすのも辛いだろう。
「…宰相閣下ともあろう方が失敗なさいましたね」
「何だと?」
「貴方が本気で静止の命令を発すれば、侯爵夫人を床に縫い止めることなど容易
でしたでしょうに…」
(策士、策に溺れる、馬鹿め)
言葉尻は敢えて濁す。これ以上、宰相の血圧を上げてはならない。
ペイジが身を呈して庇ったことで、きゃあきゃあ騒いでいる勘違い娘もいるようだが、
リアーデに感謝の気持ちはサラサラなかった。
茶会がどんなものか知った上でそれでも出席するよう命じたのは宰相だ。
どうせどこかで様子を伺っていて、自分に都合良い事態収拾を狙っていたのだろう。
怪我は彼自身の失敗だ。
それも利き腕の方を差し出すとは迂闊にもほどがある
…宰相の利き腕が左であることをリアーデは初日に確かめていた。
「つれない姫君だ」
「そういえば妙な噂が流れているとか。故意ですか、偶然ですか?」
「何だ、傾国の美姫という役柄は不服か?
カザンヌの王を死においやり、ドレンデラの宰相を惑わし…」
宰相の無事な方の手がリアーデの夜着にかかる。
やはりこのまま「お休みなさい」とはいかないらしい。
「私のような小娘にそのような大役は務まりませぬ。謹んで辞退申し上げます」
一応抵抗は示して、宰相の指先から逃れようとするも、腰を掴まれて身動きできない。
「これでもカザンヌの姫が傷ついていないか心配しているのだ…確かめさせてもらおう」
「わたくしは大丈夫で…ああっ!」
言っている端から宰相の手が胸元に差し入れられた。
そうして灯りを消すことも許されず、紫水晶が当たって紅くなった箇所を一つ一つ
なぞられることになる。
利き腕を負傷しているというのに、ペイジはリアーデの抵抗を易々と封じてみせた。
そうして彼に翻弄され、疲れきった彼女には僅かな睡眠しか与えられなかった。
やがて目覚めたカザンヌの姫にドレンデラの宰相は冷たく告げる。
「明日からお前をオランジ大佐の元に遣わす。心を込めて仕え、彼を慰め、癒やすのだ」
ペイジが“人質の姫”のために用意した「仕事」が始まろうとしていた。
カザンヌにいる家族に数行の短い手紙を送る許しを得たことだけが、
リアーデにとって救いとなった。
次回、第三章「鉄血の大佐」前篇
カザンヌの侵攻により、妻も幼い娘も息子も失った大佐は、リアーデに…?