第6話:桶狭間(二)
――同日、午後、尾張・桶狭間。
雨が、上がった。
上がった、その瞬間。
丘の上の今川本陣へ、丘の下から、織田の兵が、ときの声をあげて、突き上げてきた。
正面からの、強襲だった。
奇策でも、回り込みでもない。雨に紛れて間合いを詰めた二千が、緩みきった本陣の、その正面へ、まっすぐ、突っ込んだ。
今川本陣は、崩れた。
あまりに、突然だった。勝ち戦のはずだった。二万五千のはずだった。でも、その二万五千は、広い戦場に、散っていた。砦を攻めた者、大高にある者、街道に長く伸びた者。義元の周りに残っていたのは、本隊の、ほんの一部に過ぎなかった。そこへ、織田の全力が、一点に、集中した。数の利は、この一点では、完全に、逆転していた。
雨に濡れた斜面で、今川の兵は、足を、滑らせた。
不意を衝かれ、隊列を組む間もなく、織田の兵が、突き込んでくる。指揮の声は、雨上がりの混乱に、かき消された。どこに敵がいて、どこに味方がいるのか。緩んでいた本陣には、立て直す、わずかな時すら、与えられなかった。
義元の旗本が、削られていった。
義元を守る武者たちが、一人、また一人と、討たれていく。本陣の旗が、傾いた。輿が、捨てられた。
義元は、輿を、降りた。
そして、太刀を、抜いた。
逃げよ、という声が、あがった。でも、もう、逃げ場は、なかった。四方は、織田の兵で、埋まりつつあった。義元は、退かなかった。太刀を構え、迫る織田の武者に、自ら、立ち向かった。
海道一の弓取りは、為す術なく、討たれたのでは、ない。
最後に、自ら、刃を取って、戦った。
織田の武者・服部小平太が、義元に、槍をつけた。
義元は、その槍を、太刀で、払った。そして、踏み込み、小平太の膝を、斬り割った。名門の当主の武は、飾りでは、なかった。雅を解するその手は、同時に、人を斬る手でも、あった。小平太は、膝を割られて、倒れた。
でも、そこへ、もう一人。
毛利新介が、義元に、組みついた。
義元と新介は、もみ合い、雨に濡れた地に、倒れた。揉み合う、二つの体。やがて――。
義元の首が、落ちた。
海道一の弓取りの首が、うつけと呼ばれた男の、手の者の手に、獲られた。
その同じ丘の、どこかに、信長は、いた。
二人は、ついに、同じ場所に、いた。
信長と義元が、生涯で、同じ場所に居合わせたのは、この桶狭間の、わずかな時だけだった。父・信秀の代から、二代にわたって、三河を、尾張を、境を、争い続けてきた二つの家。その二人の当主は、ただの一度も、顔を合わせなかった。膝を交えることも、刃を交えることも、なかった。そして、ただ一度、同じ丘の上に、近づいたその時が――片方が、もう片方の、首を獲る瞬間だった。
最初で、最後の、交わり。
それが、死だった。
義元は、輿に乗って、駿府を発った。豊かな三国の、すべての富と、家格と、自負を、背に負って。そのすべてが、初夏の、たった一度の豪雨と、二千の強襲の前に、半日で、地に落ちた。
武士の家とは、家格と実力と雅の、すべてを備えた者――その、一生の自負ごと。
桶狭間の丘で、海道一の弓取りは、倒れた。




