第2話:東海の覇
――天文十八年(一五四九年)、駿河。
今川の家を、侮る者は、いなかった。
まず、家格だ。今川は、ただの戦国大名では、なかった。足利の一門――将軍家の、血につらなる名門だった。世に、こう言われた。足利の御所が絶えれば、吉良がこれを継ぎ、吉良が絶えれば、今川がこれを継ぐ、と。すなわち、今川は、将軍になりうる家格を、持っていた。下剋上で成り上がった油売りや、申次衆あがりの男たちとは、生まれが、違った。血の重みが、違った。
その家格の上に、義元は、実力を、積み上げた。
駿河、遠江、三河。
東海道の、最も豊かな道筋を、今川は、三国にわたって、押さえていた。東海道は、京と東国を結ぶ、日の本の大動脈である。その道を、物が行き交い、銭が流れる。三国の田は肥え、湊は栄え、関には、富が集まった。今川の蔵は、満ちていた。
領国を、束ねるのは、法だった。
義元の父・氏親は、今川仮名目録という、自前の法を、定めていた。家臣の争いを裁き、土地の境を定め、罪と罰を、明らかにする。守護が将軍から預かった権をなぞるのではなく、今川が、今川の国を、今川の法で治める。やがて義元自身も、この父の法に、条文を書き足していく。国を、力だけでなく、法で、治める家。それが、今川だった。
今川の強さは、当主一人の器に、よるものでは、なかった。
義元の母・寿桂尼が、いた。京の名門・中御門家から、義元の父・氏親に嫁いだ女性である。氏親が病み、当主が幼く、あるいは代替わりの隙が生じるたびに、寿桂尼は、奥から、今川の政を支え続けた。家臣は、この尼御台を、重んじた。当主が代わっても、揺るがぬ芯が、家の奥に、あった。名門の家とは、当主一人ではない。母があり、師があり、法があり、何代もの厚みがある。その厚みごと、今川は、東海に、立っていた。
その国の力を、最もよく示したのが、三河での戦だった。
西の隣、尾張には、織田という、新しく勢いを持つ一族がいた。当主・織田信秀。この信秀と、今川は、三河をめぐって、長く、争った。雪斎の指揮する今川の軍と、信秀の軍は、小豆坂で、二度、ぶつかった。一度ならず、二度。三河は、今川と織田の、境をめぐる戦の、絶えぬ戦場だった。
天文十八年、雪斎は、ついに、決着をつけにかかった。
三河の安祥城を、攻めた。この城は、織田方の、三河における拠点である。雪斎は、城を囲み、攻め立て、そして、城を守っていた、織田信秀の子――信広を生け捕りにした。信長の、異母兄である。
雪斎は、この信広を、駒に、使った。
当時、今川には、もう一人、織田にゆかりの、小さな駒があった。
松平竹千代という、三河の、幼い人質である。
竹千代は、三河の小領主・松平の、嫡子だった。父・松平広忠は、今川に従う代わりに、この子を、人質として、駿河へ差し出す――はずだった。ところが、駿河へ送られる途中、竹千代は、戸田という者の裏切りによって、奪われ、織田方へ売られた。竹千代は、二年あまり、尾張で、織田の人質として、過ごしていた。
つまり、この少年は、はじめ、織田の手にあった。
信秀の城で、人質として暮らした竹千代は、その尾張の日々に、織田の子らと、顔を合わせていたかもしれない。中に、あの、うつけと評判の、信長もいたかもしれない――そう、後の世には、伝わる。確かなことは、わからない。でも、少年・竹千代は、まず、織田の側から、武士の世を、見ていた。
雪斎は、その竹千代を、取り返した。
生け捕った織田信広と、織田の手にある竹千代を、交換したのである。信広を返す代わりに、竹千代を、今川へ。人質の、取り替え。雪斎の指揮で、今川と織田は、一人の異母兄と、一人の少年を、盤の上で、引き換えた。
こうして竹千代は、織田の人質から、今川の人質に、なった。
まず信長の側にいた少年が、こんどは義元の側に、置かれた。一人の少年が、織田と今川――やがて天下を二分することになる二つの家を、その身の内側から、続けて知る。竹千代という名のその少年の値打ちに、このとき、まだ、誰も、気づいていない。
三河を固めた義元は、やがて、二万五千の兵を動かせる国主となっていく。
二万五千。これは、並の戦国大名の、動かせる数では、ない。一国を、ようやく束ねた者が、数千を集めるのに、苦労する世である。三国を束ね、その富と法と家格をもって、二万五千を、号する。
海道一の弓取り。
東海道に、これに並ぶ武門は、ない――その称号は、大げさでは、なかった。中身が、あった。家格があり、領地があり、法があり、富があり、雪斎という頭脳があり、そして、大軍があった。
今川は、本物の、大国だった。




