第7話:長良川
――弘治二年(一五五六年)、美濃・長良川。
牙は、いちばん近いところから、剥かれた。
息子の、義龍だった。
父と子の間の、薄い冷たさは、年を追うごとに、厚みを増していた。道三が、義龍を疎み、弟たちを取り立てようとしている――その噂は、もはや、噂ではなかった。義龍は、跡継ぎの座から外される、淵に立たされていた。
義龍は、動いた。
父が、自分を捨てる前に、自分が、父を、捨てる。先手を、打ったのである。義龍は、まず、弟たちを、謀って、殺した。道三の、可愛がっていた息子たちを。そして、美濃の家臣の、大半を、自分の側に、つけた。
道三は、気づいた。気づいたとき、もう、遅かった。
かつて、自分が、土岐頼芸に、したことだった。
神輿を担ぐ者を、一人残らず、自分の側に、つけ替えてから、神輿を、地に落とす。義龍は、それを、父から、学んでいた。実力で奪える世は、実力で奪われる世だ――道三が、稲葉山の灯を見ながら、思ったその理屈を、息子が、父に向かって、実行していた。
道三のもとに、残った兵は、わずかだった。
義龍の兵は、その何倍も、あった。美濃の家臣の多くは、もう、義龍の側にいた。蝮を恐れた者、蝮に従っていただけの者――彼らは、新しい主の方が、扱いやすいと踏んで、義龍に、ついた。道三が、長井に、土岐にしたことを、家臣たちは、道三に、した。
弘治二年、長良川。
道三は、わずかな兵を率いて、川を背に、義龍の大軍と、対した。
勝てる戦では、なかった。道三にも、それは、わかっていた。
不思議と、道三の心は、晴れていた。
無念は、あった。可愛い息子たちを殺された怒りも、あった。でも、その底に、奇妙な、納得が、あった。蛇が、蛇に、噛まれて死ぬ。自分が壊した古い決まりが、自分を、守ってくれるはずがない。実力で生きた者は、実力で、死ぬ。それが、筋というものだ。義龍は、見事に、わしの息子だ。わしを呑むほどに、強くなった。
戦の前夜、道三は、筆を、執った。
書いたのは、美濃の国を、譲る、という一筆だった。
譲る相手は、息子の義龍では、なかった。
婿の、織田信長。
血を分けた息子にではなく、他人の、あのうつけに。道三は、美濃を、譲ると、書いた。
血ではなく、器に。
義龍は、確かに、強い。父を呑むほどに。でも、義龍が呑めるのは、せいぜい、美濃一国だ。あの、長良川向こうの息子は、わしと、同じ大きさの、蝮にしか、なれない。でも、尾張のあの男は――天下を、注ぎ替える。美濃という器を、本当に活かせるのは、わしの血ではなく、あの、底の知れぬ器だ。
道三が一生をかけて信じた「実力こそが武士」という答えは、最後に、血の理屈さえ、超えた。家を継ぐのは、血ではない。器だ。最も大きな器に、最も大きな国を。それが、油売りから美濃を盗んだ男の、最後の、答えだった。
譲り状を、信長のもとへ、走らせた。
そして、夜が、明けた。
長良川の戦は、短かった。
兵の数が、違いすぎた。道三の小勢は、義龍の大軍に、囲まれ、押し包まれていった。道三は、最後まで、戦った。油売りの手で槍を取り、美濃を盗んだその手で、最後の槍を、振るった。そして、討たれた。
婿の援軍は、間に合わなかった。
報せを受けた信長は、尾張から、軍を発した。でも、美濃は、遠い。国境を越え、川を渡り、長良川まで駆けつけるには、日数が、かかりすぎた。信長の兵が、美濃の地に踏み込んだとき、戦は、とうに、終わっていた。舅の死には、間に合わなかった。
でも、信長は、受け取っていた。
道三の、最後の一筆を。美濃を譲る、という、あの譲り状を。
他人の婿に国を譲るというその一通が、後の世に、どこまで道三の真意を伝えるものだったか――それは、誰にも、確かめようがない。でも、信長は、生涯、その一通を、忘れなかった。舅が、息子ではなく、自分に、美濃を託した。その意味を。やがて信長は、その美濃を――道三を討った義龍の子の代に――力で、奪い取る。蝮が器に託した国を、器が、力で、受け取りにいく。道三の最後の答えは、十年あまりの時を経て、現実のものとなる。
長良川の岸に、蝮は、倒れた。
油を、針の穴に通した男。国の内側に、銭で入り込んだ男。主を担ぎ、捨て、一国を呑んだ男。恐れさせ、なお、食わせた男。娘を、最も得体の知れぬ器に、賭けた男。そして、自分を呑んだ息子を、見事だと認め、血ではなく器に、国を譲った男。
悪辣さも、統治も、会見での鋭い眼も、死の納得も、すべては、一つのことから出ていた。
武士とは、強い者だ。
血でも、家でもない。実力だ。
道三は、その答えを、信じ抜いて、生き、その答えの刃で、死んだ。義政が、答えられなかった問いに、油売りあがりの男は、一生をかけて、迷いなく、答えた。そして、その答えが正しいことを、自らの死で、証明した。実力の世では、最も強く奪った者さえ、いつか、より強い誰かに、奪われる。
その答えを、今、尾張の若い器が、受け取った。
長良川の岸に、蝮の血が、乾いていく。
戦国が、次の段に、上がろうとしていた。
第二章 油売りの夢——斎藤道三 ――完。




