第6話:鎌倉の主
――治承四年(一一八〇年)十月、武蔵国から相模国鎌倉へ。
武蔵に入ると、軍勢は膨らみ続けた。
江戸、河越、葛西。昨日まで平家方だった家々が、続々と頭を下げに来る。頼朝はそのたびに、先祖伝来の土地の権利を認め、忠義を誓わせた。来る者を拒んでいては、坂東は束ねられない。
その中に、畠山重忠がいた。
まだ十七の若者である。石橋山の前哨で頼朝方の三浦と戦い、由比ヶ浜で矛を交え、衣笠城を攻めて、三浦の老いた当主・義明を死なせた――その畠山が、一族を率いて帰参を願い出てきた。
本陣の隅には、三浦義澄が、いた。父を死なせた敵が、目の前で、帰参を願う。義澄の顔は岩のようだったが、口は、開かれなかった。頼朝は、その岩の顔を横目に見ながら、若者の帰参を、許した。降参する者の顔ではなかった、と後になっても覚えていた。
昨日の敵が、今日は並んで座る。並びながらも、腹の底の傷は消えない。それでも、並ぶ。それが坂東なのだと、頼朝はこの頃にはもう、骨身で分かっていた。束ねるというのは、その傷ごと束ねることなのだ。
十月六日、頼朝は鎌倉に入った。
源氏ゆかりの地だ。先祖の八幡宮があり、三方を山に囲まれ、前は海。攻めるに難く、守るに易い。でも、頼朝が鎌倉を選んだ理由は、地形だけではなかった。
京から、遠い。
都の位や書付の届きにくいところに、武士の世の柱を立てる。誰に説明したわけでもないけれど、頼朝の頭の中では、もう、そういう絵が引かれ始めていた。
鎌倉に入って、頼朝がまず足を運んだのは、亀ヶ谷だった。
父・義朝の、館の跡である。頼朝は、その館を見たことがなかった。京の育ちである。十四で伊豆へ流された。父が坂東でどういう男だったのかを、頼朝は、人の口からしか知らない。
礎石の間から、草が伸びていた。
その草の中に、小さな堂が建っていた。岡崎義実という老人が、義朝の菩提を弔うために建てたのだという。三浦の一族である。主が死んで二十年、誰に命じられたわけでもなく、この谷に堂を建て、手を合わせ続けていた。
頼朝は、しばらく、そこに立っていた。
それから、館はここには建てぬ、と言った。谷が狭い。人と馬が、入りきらない。新しい御所は、東の大倉の平地に置く――。
御所の建設が始まり、八幡宮を移す工事の槌音が谷あいに響き始めた、その数日後だった。
西から、早馬が来た。
平家の追討軍が、東海道を下ってくる。大将は平維盛。兵力は数万と称する――。
頼朝は工事の図面から顔も上げずに、ただ一言だけ言った。
「出る」
鎌倉に入って、まだ十日と経っていなかった。




