第5話:帰蝶
――天文十七年(一五四八年)、美濃・尾張。
道三には、娘が、いた。
帰蝶という。後の世に、濃姫と呼ばれる女である。
帰蝶は、父に、よく似ていた。顔立ちではない。眼が、似ていた。人を、値踏みする眼。物事の裏に回って、損得と、力のありかを、見透かす眼。道三の子の中で、帰蝶は、最も、父の器量を、よく知る者だった。父が、どれほど恐ろしく、どれほど、底の知れぬ男か。そして、その恐ろしさが、どれほど、確かなものか。
その帰蝶を、道三は、嫁がせると、決めた。
相手は、尾張の、織田。
美濃の西、尾張の国に、織田信秀という、これも、成り上がりの勢いを持つ男がいた。その信秀と、道三は、長く、争ってきた。国境で、幾度も、刃を交えた。でも、争い続けることに、道三は、利を、見なかった。西の尾張と争い続ければ、東や北の敵に、つけ込まれる。
道三は、織田と、結ぶことにした。
その証として、帰蝶を、信秀の嫡子に、嫁がせる。
嫡子の名を、信長といった。
うつけ、と、評判の男だった。
帰蝶のもとにも、その評判は、届いていた。婿となる男は、尾張一の、たわけ者だという。奇妙な格好で町を歩き、行儀を知らず、餅を頬張りながら馬を駆り、家臣にも見放されかけている、どうしようもない、大うつけ。そんな男に、自分は、嫁ぐ。
帰蝶は、輿に乗る前、父に、会った。
「父上は、わたくしを、うつけに、くれてやるのですか」
帰蝶の声に、嘆きは、なかった。
あったのは、問いだった。父の、考えを、測る問い。道三は、娘の、その眼を、見た。自分とよく似た、値踏みの眼を。
「帰蝶。お前は、わしの娘だ。だから、わかるはずだ。わしが、損をする賭けを、すると思うか」
「思いませぬ」
「うつけ、という評判はな、帰蝶。当てに、ならぬ。世間がうつけと呼ぶ男には、二通りある。本物のたわけと、もう一つ――うつけを、装っている者だ」
道三は、続けた。
「織田の信長が、どちらかは、わしにも、まだ、わからぬ。だが、本物のたわけなら、織田は、信長の代で、潰れる。それはそれで、よい。尾張が乱れれば、美濃の脅威は、減る。だが、もし、装っているのなら――」
道三は、そこで、言葉を、切った。
「もし、装っているのなら、あの男は、わしの油よりも、ずっと大きなものを、注ぎ替える。そのとき、お前は、その大きな器の、すぐ傍らに、いることになる」
帰蝶は、父の言葉を、噛みしめた。
父は、娘を、捨てるのではなかった。父は、娘という、自分の持ち駒の中で、最も価値のある一枚を、最も、得体の知れぬ相手の盤上に、置こうとしていた。負けても損のない、勝てば計り知れぬ――そういう、賭けの駒として。
それは、非情な、賭けだった。
でも、帰蝶は、その非情を、恨まなかった。むしろ、父が、自分を、ただの泣く駒ではなく、賭けの、いちばん重い駒として、扱っていることに、奇妙な誇りすら、覚えた。わたくしは、父の、いちばん高い賭け金なのだ、と。
「行ってまいります、父上」
帰蝶は、頭を下げ、輿に、乗った。
美濃から、尾張へ。
道三は、娘の輿が、国境の彼方へ、消えていくのを、見送った。あの輿の先に、うつけがいる。本物のたわけか、装った何者か。道三には、まだ、その顔が、見えなかった。でも、帰蝶という、自分の眼によく似た娘を、その男の傍らに、置いた。
いつか、その娘の眼を通して、あるいは、自分自身の眼で、あのうつけの、本当の顔を見てやろう。
道三は、そう思った。
その「いつか」が、五年の後に、やってくる。




