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刀を持たない朝 ―武士とはなにか、七百年の物語―  作者: ソリトん
第二章 油売りの夢——斎藤道三

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第5話:帰蝶

 ――天文十七年(一五四八年)、美濃・尾張。

 道三には、娘が、いた。

 帰蝶(きちょう)という。後の世に、濃姫と呼ばれる女である。

 帰蝶は、父に、よく似ていた。顔立ちではない。眼が、似ていた。人を、値踏みする眼。物事の裏に回って、損得と、力のありかを、見透かす眼。道三の子の中で、帰蝶は、最も、父の器量を、よく知る者だった。父が、どれほど恐ろしく、どれほど、底の知れぬ男か。そして、その恐ろしさが、どれほど、確かなものか。

 その帰蝶を、道三は、嫁がせると、決めた。

 相手は、尾張の、織田。

 美濃の西、尾張の国に、織田信秀という、これも、成り上がりの勢いを持つ男がいた。その信秀と、道三は、長く、争ってきた。国境で、幾度も、刃を交えた。でも、争い続けることに、道三は、利を、見なかった。西の尾張と争い続ければ、東や北の敵に、つけ込まれる。

 道三は、織田と、結ぶことにした。

 その証として、帰蝶を、信秀の嫡子に、嫁がせる。

 嫡子の名を、信長といった。

 うつけ、と、評判の男だった。

 帰蝶のもとにも、その評判は、届いていた。婿となる男は、尾張一の、たわけ者だという。奇妙な格好で町を歩き、行儀を知らず、餅を頬張りながら馬を駆り、家臣にも見放されかけている、どうしようもない、大うつけ。そんな男に、自分は、嫁ぐ。

 帰蝶は、輿に乗る前、父に、会った。


「父上は、わたくしを、うつけに、くれてやるのですか」


 帰蝶の声に、嘆きは、なかった。

 あったのは、問いだった。父の、考えを、測る問い。道三は、娘の、その眼を、見た。自分とよく似た、値踏みの眼を。


「帰蝶。お前は、わしの娘だ。だから、わかるはずだ。わしが、損をする賭けを、すると思うか」

「思いませぬ」

「うつけ、という評判はな、帰蝶。当てに、ならぬ。世間がうつけと呼ぶ男には、二通りある。本物のたわけと、もう一つ――うつけを、装っている者だ」


 道三は、続けた。


「織田の信長が、どちらかは、わしにも、まだ、わからぬ。だが、本物のたわけなら、織田は、信長の代で、潰れる。それはそれで、よい。尾張が乱れれば、美濃の脅威は、減る。だが、もし、装っているのなら――」


 道三は、そこで、言葉を、切った。


「もし、装っているのなら、あの男は、わしの油よりも、ずっと大きなものを、注ぎ替える。そのとき、お前は、その大きな器の、すぐ傍らに、いることになる」


 帰蝶は、父の言葉を、噛みしめた。

 父は、娘を、捨てるのではなかった。父は、娘という、自分の持ち駒の中で、最も価値のある一枚を、最も、得体の知れぬ相手の盤上に、置こうとしていた。負けても損のない、勝てば計り知れぬ――そういう、賭けの駒として。

 それは、非情な、賭けだった。

 でも、帰蝶は、その非情を、恨まなかった。むしろ、父が、自分を、ただの泣く駒ではなく、賭けの、いちばん重い駒として、扱っていることに、奇妙な誇りすら、覚えた。わたくしは、父の、いちばん高い賭け金なのだ、と。


「行ってまいります、父上」


 帰蝶は、頭を下げ、輿に、乗った。

 美濃から、尾張へ。

 道三は、娘の輿が、国境の彼方へ、消えていくのを、見送った。あの輿の先に、うつけがいる。本物のたわけか、装った何者か。道三には、まだ、その顔が、見えなかった。でも、帰蝶という、自分の眼によく似た娘を、その男の傍らに、置いた。

 いつか、その娘の眼を通して、あるいは、自分自身の眼で、あのうつけの、本当の顔を見てやろう。

 道三は、そう思った。

 その「いつか」が、五年の後に、やってくる。


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