第4話:国主の貌
――天文十五年(一五四六年)、美濃・稲葉山。
国を盗んだ男は、国を治める男でも、あった。
道三は、稲葉山の城に、拠った。麓に、城下町を、開いた。蝮と恐れられた男が、美濃の主として、まず手をつけたのは、城下の、暮らしだった。
道三は、商人を、呼んだ。
市を立て、座――商人の組合の、難しい仕来りを、ゆるめた。よそから来た商人にも、商いの場を、与えた。関所の、むやみな取り立てを、整理した。物が、動けば、銭が、動く。銭が動けば、城下が、富む。城下が富めば、道三の力も、富む。道三は、油売りの頃から、その理屈を、骨の髄まで、知っていた。
民は、蝮を、恐れた。
主を裏切り、旧主を追った男だ。恐ろしくない、はずがない。でも、その恐ろしい男の城下で、暮らしは、案外、楽になっていた。市は賑わい、物は安く、理不尽な取り立ては、減った。民は、囁いた。蝮は、恐ろしい。だが、前の、雅なだけの守護様より、よほど、暮らしやすい、と。
恐怖と、安心が、同居していた。
それが、道三の、治め方だった。恐れさせ、なお、食わせる。早雲が、富士の見える国で、粥と検地で示したのとは、また違う。早雲は、奪った国の民に、まず、安心せよ、と示した。道三は、奪った国の民に、まず、恐れよ、そして、その上で食わせてやる、と示した。守る実力と、抑え込む実力。下剋上の、二つの顔だった。
その頃、道三のもとに、一人の若い武士が、仕えていた。
明智十兵衛光秀という。
美濃の、土岐ゆかりの一族の出だという。年若く、物静かで、礼儀正しい。武芸も、学問も、よくできた。何をやらせても、そつがない。道三は、その若者を、幾度か、近くで見た。
よくできた男だ、と思った。
よくできすぎている、とも、思った。
光秀には、隙が、なかった。受け答えは的確で、立ち居振る舞いは美しく、感情を、めったに、表に出さない。でも、その整いすぎた姿の底に、道三は、何か、得体の知れぬものを、感じた。澄んだ水を深く覗き込んだとき、底が見えずに、ふと、足のすくむような――そういう、冷たい深さが、この若者には、あった。
「光秀」
道三は、一度、声をかけたことがある。
「お前は、よくできる。だが、よくできる者ほど、いつか、己の主を、値踏みする。主が、己の器に、見合わぬとわかったとき――お前は、どうする」
光秀は、静かに、頭を下げた。
「滅相もないことでございます」
そつのない、答えだった。
その、そつのなさが、かえって、道三の、勘に障った。この若者は、いつか、誰かに仕え、その誰かを、心の底で、測るだろう。測って、見合わないとわかったとき、何をするか――道三には、その先が、見えなかった。見えないことが、この男の、底の知れなさだった。道三は、それきり、光秀に、深くは、立ち入らなかった。
道三には、わかっていた。
己もまた、長井を、土岐を、値踏みし、見合わないとして、呑んだ男だ。下剋上を、誰よりも、やってのけた男だ。ならば。
ならば、と、道三は、稲葉山の天守から、城下の灯を見下ろして、思った。
実力で、奪える世だ。
ならば、実力で、奪われる世でも、ある。
わしが、長井を呑み、土岐を呑んだように――いつか、誰かが、わしを、呑む。それが、息子かもしれない。家臣かもしれない。あの、底の知れない若侍かもしれない。実力の世とは、そういう世だ。上り詰めた者の足元は、常に、下から、崩されていく。
道三は、その考えを、恐れなかった。
恐れる代わりに、納得していた。自分が壊した古い決まり――生まれた段に一生立つ、という決まり――を、自分が、もう一度、上から守ってもらえるはずが、ない。蛇が、蛇に噛まれて死ぬ。それだけのことだ。
城下の灯を見ながら、道三は、息子・義龍のことを、思った。
長男の義龍とは、近頃、うまく、いっていなかった。義龍を疎んじ、弟たちを可愛がる――そんな噂が、家中に、流れ始めていた。父と子の間に、薄い、冷たいものが、差し込み始めていた。
道三は、その冷たさの、行き着く先を、まだ、はっきりとは、見ていなかった。
でも、実力で奪える世は、実力で奪われる世だ――その理屈が、いちばん近いところで、自分に牙を剥くことになるとは。蝮の眼も、そこまでは、まだ、届いていなかった。




