第3話:蝮
――天文十一年(一五四二年)、美濃。
美濃の守護・土岐の家は、兄弟で、割れていた。
守護・土岐頼武と、その弟・頼芸。家督をめぐって、いがみ合う兄弟。道三は、その亀裂に、油を、注いだ。
道三が担いだのは、弟の頼芸だった。
頼芸は、絵を描く、雅な男だった。鷹の絵を能くし、風流を解した。でも、国を治める力も、兄を退ける度胸も、足りなかった。足りないからこそ、道三には、好都合だった。道三は、頼芸に力を貸し、兄・頼武を、美濃から追い落とした。頼芸が、守護の座に、就いた。
頼芸は、喜んだ。
道三のおかげで、念願の守護になれた、と。頼芸は、道三を、頼りにした。国の切り盛りを、道三に、任せた。絵筆を握る守護に代わって、道三が、美濃を、動かした。
頼芸は、気づいていなかった。
自分が、道三にとって、何であったか。担ぐための、神輿に過ぎなかったことを。神輿は、担ぐ者がいて、初めて、上にある。担ぐ者が、手を放せば、地に、落ちる。
道三は、十分に、待った。
頼芸の名で、美濃の家臣を、自分の側に、つけ替えた。頼芸の権威を使って、逆らう国人を、抑えた。頼芸という神輿の上に乗りながら、その神輿を担ぐ者たちを、一人残らず、自分の手の者に、入れ替えていった。
そして、ある夜。
道三は、手を、放した。
兵が、頼芸の館を、囲んだ。守護の館である。でも、その守護を守るべき家臣たちは、もう、道三の側にいた。頼芸が、夜の闇の中で、気づいたときには、味方は、どこにも、いなかった。
頼芸は、美濃を、追われた。
絵筆の守護は、わずかな供を連れて、国を出た。かつて自分が兄を追い落としたのと、同じように。いや、もっと、惨めに。兄を追ったときは、頼芸には、道三という力があった。でも、今頼芸を追う道三には、頼芸を担いでくれる、誰も、いらなかった。道三は、もう、神輿を、必要としなかった。自分自身が、美濃の、主だった。
旧主を追った、その夜。
道三は、追われていく頼芸の灯を、城の上から、見ていたという。雅な守護の、消えていく灯を。そこに、勝利の昂りは、なかった。あったのは、ただ、一つの古い権威が、また一つ、力の前に畳まれていく――その、静かな確認だけだった。
京では、将軍が、管領に挿げ替えられていた。
美濃では、守護が、家臣に追われた。上が、下に、食われていく。応仁このかた、日の本じゅうで起きていることが、美濃でも、起きた。ただ、美濃でそれをやってのけたのが、武家の血を引く家臣ですらない、油売りあがりの男だった――そこだけが、世の人を、震え上がらせた。
人は、この男を、蝮と呼んだ。
美濃の蝮。
飼い主に、牙を剥く蛇。恩を仇で返し、担いだ主を、平然と捨てる男。でも、道三は、その異名を、嫌わなかった。蝮で、けっこう。蛇は、上下の作法など、知らない。蛇は、ただ、生き延びるために、噛む。それが、この壊れた世の、新しい武士の、姿ではないか。
油売りが、針の穴に油を通してから、三十年。
その手は、針の穴ではなく、一国を、通り抜けていた。




