第6話:新井城
――永正十三年(一五一六年)、相模・新井城。
相模に、最後まで、宗瑞に屈さぬ家が、あった。
三浦である。
三浦――相模の名族。その名を、宗瑞は、知っていた。いや、東国に育った武士なら、誰もが、知っていた。
鎌倉が始まるよりも前、平家の世に、衣笠城に拠って源氏のために戦い、老将・三浦義明が、子や孫を逃して、ただ一人、城を枕に討死した家。鎌倉の世には、和田義盛を出し、宝治の合戦で北条に滅ぼされかけながら、なお血を繋いだ家。坂東に、三浦あり、と謳われた、最も古い武士の家の、一つだった。
その三浦の末裔・三浦道寸が、相模の東に、なお、踏みとどまっていた。
道寸は、宗瑞に、抗った。
新井城に拠った。三浦半島の先、三方を海に囲まれた、天然の堅城である。宗瑞は、この城を、容易には、落とせなかった。力攻めにすれば、味方の損害が、大きすぎる。宗瑞は、囲んだ。じわじわと、食料の道を断ち、城を、干上がらせていった。
その囲みは、三年に、及んだ。
三年である。三浦の名族は、三年、籠もって、抗い続けた。海から、わずかに運び込まれる食料で、飢えを凌ぎ、なお、屈しなかった。家格の理屈が滅びゆく時代に、その家格を最も古くから背負ってきた家が、最後の意地で、実力の新興者に、抗っていた。
永正十三年、新井城は、ついに、落ちた。
食料は尽き、援軍は、絶えていた。道寸は、もはやこれまでと、城を出て、討って出た。最後の戦だった。鎌倉以来の名族の意地を、その身に集めて、道寸とその子は、宗瑞の大軍の中へ斬り込み、そして、討たれた。三浦の血は、ここで、ほとんど、絶えた。
宗瑞は、落ちた新井城に、立った。
海が、見えた。
三方を囲む、青い海。その海の彼方、北の方角に、宗瑞は、ふと、鎌倉を、思った。直接、見えるわけではない。でも、その方角に、かつて武士の世を始めた都が、あった。三浦義明が、和田義盛が、その武士の世を、その身で支えた。三百年余り前のことだ。
その、最も古い武士の家を、宗瑞は、今、滅ぼした。
家格を持たない宗瑞が、家格の最も古い家を、実力で、滅ぼした。鎌倉以来の秩序が、ここで、また一つ、力の前に、畳まれた。宗瑞は、その海を、しばらく、見ていた。勝者の昂りは、なかった。ただ、一つの古いものが、自分の手で終わったことの、静かな重さだけが、あった。
古いものが、新しいものに、呑まれていく。
いつか、誰かが、自分のこの家も、そうやって呑むのだろう。
三浦を滅ぼし、相模を平定して、宗瑞は、伊豆・相模二カ国の主と、なった。一介の申次衆から、二カ国の主へ。京を捨てて、三十年であった。
宗瑞は、もう、老いていた。
家督を、子の氏綱に、譲った。そして、家のための掟を、書き遺した。後の世に、早雲寺殿廿一箇条と呼ばれる、二十一条の家訓である。
その中身は、奇妙なものだった。
朝は、早く起きよ。
夜は、早く寝よ。
嘘を、つくな。
信心を、持て。
刀や着物は、身分相応にせよ。
暇があれば、書を読め。
火の用心を、怠るな。
――天下を取れ、とは、どこにも、書いていなかった。隣国を攻め取れ、とも、武勇を磨け、とも、書いていなかった。書いてあるのは、早起きと、正直と、火の用心。一国一城の主の遺言とは思えぬ、奇妙に、実直な、暮らしの心得ばかりだった。
でも、それは、宗瑞という男の、すべてだった。
京の死んだ器の中で、ただ正確に、実務をこなしてきた男。伊豆の村に、計算ずくで粥を配り、民を保つことを国の元手とした男。その男の最後の言葉が、早起きと、正直と、火の用心であったことは、いっそ、宗瑞らしかった。野望の人ではなかった。現実が、見えすぎる人だった。幕府の死を、誰よりも早く見たから、外へ出た。民が生きねば国は立たないと、誰よりも冷たく計算したから、粥を配った。その実直の人が、最後に遺したのが、暮らしの心得だったのだ。
永正十六年、伊勢宗瑞は、韮山の城で、死んだ。
六十四とも、八十八とも、伝わる。その生涯の長さすら、定かではない。最初の戦国大名は、自らの齢さえ、後の世に、はっきりとは、残さなかった。
京の作法を、知り尽くした男だった。
その男が、京に背を向けて、富士の見える国に、小さな国を作った。家格に拠らず、実力で立ち、民政で、その実力を、正しいものにした。土地の保証を、上から貰うものから、下に認めさせるものへ、裏返した。
その背中を、これから、多くの者が、追いかける。
富士の見える国から始まった流れは、これから、日の本じゅうへ、広がっていく。
宗瑞の死の頃、美濃の片隅では、一人の油売りあがりの男が、まだ、機を、窺っていた。
第一章 早雲——最初の戦国大名 ――完。




