第5話:小田原
――明応四年(一四九五年)、相模。
伊豆を固めた宗瑞は、次に、西相模へ、眼を向けた。
相模の入口に、小田原城があった。城主は、大森藤頼。箱根の山を背に、相模湾を望む、攻めにくい堅城である。この城を取れば、伊豆から、相模への道が、開ける。
小田原を、宗瑞は、どう取ったか。
軍記の伝えるところでは――大森藤頼に近づき、油断させた宗瑞が、箱根で鹿狩りをしたいと願い出た、という。山に勢子(せこ=狩りで獣を追い立てる人)を入れる許しを得た宗瑞は、その勢子に、兵を紛れ込ませた。夜、牛の角に松明を結わえて山を駆けさせ、大軍が攻め寄せたように見せかけ、混乱に乗じて、城を奪った――と、伝わる。
どこまでが、事実か、定かではない。
牛の角の松明は、いかにも、後の世が好みそうな話だ。でも、宗瑞が、力押しではなく、策略と奇計で、小田原をわずかな血で奪ったことは、確かだろう。申次衆あがりの宗瑞には、正面からの力比べよりも、人の油断を読み、機を計る戦が、性に合っていた。
小田原を得て、宗瑞は、伊豆と相模の西半を、手にした。
そして、奪った相模でも、宗瑞は、伊豆と同じことを、した。
検地をし、税を定め、勝手な取り立てを禁じ、民を保った。新しく宗瑞の領となった村々もまた、囁いた。新しい殿様の方が、ましだ、と。刀で取り、粥で固める。宗瑞のやり方は、伊豆でも、相模でも、変わらなかった。
この、宗瑞の台頭を、苦々しく見ている者たちが、いた。
関東管領・上杉である。
上杉――かつて、皇族の将軍に従って、京から鎌倉へ下ってきた、あの若い公家の家。重房の代に東国へ根を下ろし、武家に転じ、足利尊氏に従って、関東管領の家格を得た、鎌倉以来の名門だ。その上杉が、今、山内と扇谷の二家に分かれて、関東の覇を、争っていた。
両上杉は、宗瑞を、警戒した。
どこの馬の骨とも知れない、京下りの素浪人――いや、申次衆あがりの男が、伊豆を奪い、相模に手を伸ばしている。家格を持つ名門から見れば、宗瑞は、許しがたい横取り者だった。でも、その家格の名門たちは、互いに争うことに忙しく、宗瑞という新しい芽を、摘むことが、できなかった。
ここに、二つの家の、対照があった。
沈み始めた名門――上杉。
昇り始めた新興――宗瑞の家。
上杉は、鎌倉以来の家格を持ちながら、内輪の争いで、力を、すり減らしていた。やがてこの家は、関東の地で追い詰められ、その当主が、遠く越後へ落ち延び、長尾の家の若き当主に、その家名を、託すことになる。家格だけが残り、力を失った名門の、長い黄昏が、ここから、始まっていた。
一方、宗瑞が興した家は、まだ、小さかった。
伊豆と、相模の西半。それだけの、新しい家。でも、この家は、これから、宗瑞の子・氏綱、孫・氏康の代を経て、関東のほとんどを呑み込む大勢力へと、育っていく。家格はなくとも、実力と民政で、関東に、新しい秩序を、打ち立てる家。後の世に、後北条と呼ばれる家の、これが、出発点だった。
昇る家と、沈む家。
宗瑞は、その昇る家の、最初の一人だった。
でも、宗瑞は、知らなかった。あるいは、知っていて、気にしなかった。自分が興したこの家が、百年の後、天下を統べた者の、最後の総仕上げの一戦――小田原を囲む、海と陸の、二十万の大軍の前に、滅びることを。最初の戦国大名が興した家が、戦国を終わらせる者の手で、畳まれる。その遠い末を、今、富士の見える国に立つ宗瑞は、知る由も、なかった。




