第6話:東山
――文明十四年〜延徳二年(一四八二〜九〇年)、京・東山。
義政は、東山に、籠もった。
文明十四年から、東山の山荘の造営が、始まった。焼け野原の京を後にして、義政は、その普請に、残りの生涯を、注ぎ込んだ。
祖父は、北山に、金の楼を建てた。
孫は、東山に、銀の楼を――いや、銀ではなかった。
観音殿と呼ばれたその二層の楼に、義政は、金箔を貼らなかった。銀箔も、貼られることはなかった。祖父の金閣が、まばゆく水面に映えたのに対し、義政の楼は、木地のまま、ひっそりと、木立の中に立った。後の世が、それを銀閣と呼んだのは、金閣との対の名であって、銀が貼られたからではない。
義政が求めたのは、輝きではなかった。
静けさだった。
山荘の庭は、苔の寺・西芳寺を手本に、組まれていった。池をめぐる庭の奥に、水を使わず、白砂と石だけで水の流れを表す一角があった。枯山水である。砂に箒目を引き、石を据え、苔を生やす。派手な色は、どこにもなかった。あるのは、白と、緑と、影だけだった。義政は、その庭に、飽かず眺め入った。寛正の昔、飢えた都の真ん中で石を据えたあの眼は、今、焼けた都を離れた山の中で、ようやく、邪魔されることなく、その美を、極めようとしていた。
義政の傍らには、同朋衆や、身分の外の職人たちがいた。
同朋衆は、将軍に仕えて芸や雑事を担う者たちだ。庭を組む河原者の善阿弥と、その孫。絵筆で仕える狩野の絵師。唐物を目利きする、芸阿弥、相阿弥ら、阿弥の号の者たち。――身分でいえば、武士でも公家でもない、芸の徒である。かつて祖父が世阿弥を愛したように、義政もまた、身分の外の者たちに、美を委ねた。彼らは、庭を造り、絵を描き、唐物を選び、茶の作法を整えた。武家の頂点が政の力を失った場所で、身分なき者たちが、後の世に残る美を、形にしていった。
それは、皮肉だった。
義政が将軍として成したことは、何一つ、残らなかった。乱は止められず、都は焼け、幕府の権威は灰になった。でも、義政が将軍であることから逃れて、東山で造ったもの――枯山水、書院、茶の湯、侘びの美――は、その後、何百年も、日の本の美の土台になった。政では何も残せなかった男が、美では、時代を超えるものを残した。
文明から延徳へ。
その間に、義政の周りからは、人が、消えていった。
子の義尚は、若くして、将軍として、近江へ出陣していた。近江の六角を討つためである。六角は、佐々木の一族の、南近江の守護だった。乱の間に幕府の命に従わず、他人の土地を奪い続けた六角を、義尚は、自ら兵を率いて、討とうとした。父にできなかった「将軍の威の回復」を、若い義尚は、武で果たそうとしたのである。
でも、義尚は、その陣中で、死んだ。
延徳元年、近江の陣で、二十五歳の若さで。酒と女に身を持ち崩した末の病とも言われた。父が政から逃げた反動のように、武で身を立てようとした子は、その途中で、あっけなく倒れた。立て直しの、最後の希望が、潰えた。
義尚が空しく死んだ近江でも、すでに乱の渦の中にあった関東でも、京から遠い国々でも、同じことが起きていた。中央が焼けて消えた今、地方の家々は、それぞれの土地で、自分の力だけを頼りに、立ち始めていた。
でも、その地べたで何が起きているのかを、東山に籠もった義政が、つぶさに知ることは、もう、なかった。義政が高みから眺めていたのは、火と、灰と、煙だけだった。その火の下で、誰が焼かれ、誰が奪い、誰が新しい力をつけていたのか――それは、地べたを生きた者だけが、知っていた。
延徳二年、足利義政は、世を去った。
東山の山荘で。観音殿の完成を、見ることなく。
美への眼だけは、最後まで、本物だった。でも、将軍としては、何一つ、思うままにできなかった。武士とは何か――その問いに、ついに、答えられなかった。答えられないまま、焼ける都を眺め、東山に逃げ、石と砂と苔の国の中で、静かに、死んだ。
答えられなかった問いだけが、残った。
その問いは、灰になった京から、戦火の中へ、転がり出ていった。
銀箔の貼られない楼が、東山の木立の中で、静かに、暮れていく。義政の美の眼が残したその静けさは、しかし、都の外で起きていたことの、ほんの上澄みに過ぎなかった。
将軍が高みから眺めていたその戦火を、地べたで生きた者たちがいた。焼かれ、奪い、それでも生き延びた者たちが。
第五章 銀閣と戦火——足利義政、答えられなかった将軍 ――完。




