第4話:果てなき乱
――応仁元年〜文明五年(一四六七〜七三年)、京。
戦は、終わらなかった。
幕府の誰もが、一年で片づくと踏んでいた。二つの大守護の争いなら、いずれ勝敗が決し、負けた方が国へ帰る。それが、これまでの作法だった。でも、応仁の乱は、その作法から、外れていた。どちらも勝たず、どちらも負けず、ただ、京の市中で、にらみ合いと小競り合いが、果てしなく続いた。
なぜ、終わらないのか。
誰も、本気で勝とうとしていなかったからだ。
守護たちは、京で陣を敷きながら、本心では、国元を案じていた。京で戦っているあいだに、留守の領国を、守護代や国人に奪われはしないか。実際、それは、各地で起きていた。京の主が留守のあいだに、国元の家臣が力をつけ、土地を握っていく。守護たちは、京の戦に身が入らなくなり、一人、また一人と、国へ帰っていった。
帰った国で、彼らを待っていたのは、もう、かつての領国ではなかった。
将軍は、その戦を、止められなかった。
はじめから、何もしなかったのでは、なかった。一度だけ、義政は、本気で、動いた。東軍の細川勝元と、西軍の山名宗全――二人の総大将を、御所へ召し、自ら、矛を収めよ、と命じたのである。将軍が、直々に、和睦を命じる。将軍の権威が、わずかにでも生きていれば、効くはずの手だった。
勝元も、宗全も、御所へは、来た。
「御諚(ごじょう=将軍の仰せ)は、謹んで、承りましてございます」
と、勝元が、額を畳につけた。老いた宗全も、続いて、同じ言葉を、同じ抑揚で、繰り返した。
「御諚は、謹んで、承りましてございます」
義政は、ひとまず、安堵した。これで、戦は、収まる、と。
でも、御所の門を出たその足で、二人は、それぞれの陣へ帰り、何事もなかったように、また戦を続けた。謹んで承る――その一言が、将軍を黙らせ、引き取らせるための、ただの作法に過ぎないことを、義政は、そのとき、思い知った。命じても従われないのでは、ない。従うふりをして、その実、嗤われるのだ。
それから義政は、幾度か、なお和を命じる命令を、出しはした。でも、それは、もう、形ばかりだった。命じても従われないと知れば、命じる気も、失せる。義政は、やがて、戦から、眼を逸らした。政から、半ば、身を引いた。焼ける都の真ん中で、将軍は、何もできず、何もしなくなった。
その一方で、戦が長引くほど、肥える者がいた。
将軍の妻・日野富子である。義政が政から身を引き、庭の石ばかりを見ているあいだ、富子は、別のものを見ていた。銭である。富子は、米を買い占めた。戦で物の値が上がる京で、米を握る者は、富を握る。さらに富子は、東軍にも、西軍にも、銭を貸した。敵味方の別なく、戦をする者に、高い利で、銭を貸し付けた。京の七口に関所を設け、出入りする者から、銭を取った。
都が焼け、民が飢え、足軽が掠奪に走る、その同じ京で。
将軍の妻は、戦から、巨万の富を、積み上げていった。戦が続くかぎり、富子の蔵は、肥え続ける。誰よりも戦の終わりを望まぬ者が、武家の頂点の、すぐ隣にいた。義政は庭を見、富子は銭を数えた。足利の頂点の夫婦が、燃える都に、それぞれの背を向けて、座っていた。
だが、富子が銭に執したのには、わけがあった。
頼りにならない夫と、いつ焼け出されるか知れない将軍家を抱えて、家を守る術は、富子には、銭しか、なかったのかもしれない。義政が美へ逃げたように、富子は、銭へ、すがった。どちらも、答えの出ない乱世から、それぞれのやり方で、目を逸らしていた。ただ、富子の集めた銭だけが、形のあるものとして、後に残った。
文明五年、戦の渦の中で、山名宗全が、死んだ。
西軍の総大将である。武人の古い気骨を残した老将だった。理屈よりも力を信じ、勝元との意地の張り合いから、この戦に深入りした男。その宗全が、戦の決着を見ぬまま、病で世を去った。
その二月の後、追うように、細川勝元も、死んだ。
東軍の総大将である。秩序を守るつもりで戦を始め、気づけば、都を焼く戦の片方の旗頭になっていた男。勝元もまた、何も決着しないまま、逝った。
二人の総大将が、相次いで死んだ。
でも、戦は、終わらなかった。
始めた当人たちが死んでも、戦だけが、独りでに、続いた。もはや、誰も、何のために戦っているのか、覚えていなかった。畠山の家督争いも、義視と義尚の跡継ぎ争いも、とうに、戦の理由ではなくなっていた。なぜ、終わらぬのか。御所の高みからは、その理由が、ついに見えなかった。理由は、御所からいちばん遠い、地べたにあった。




