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刀を持たない朝 ―武士とはなにか、七百年の物語―  作者: ソリトん
第一章 挙兵——石橋山の雨

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第3話:石橋山の雨

 ――治承四年(一一八〇年)八月二十三日、相模国石橋山。

 雨は、夕方から本降りになった。

 石橋山の谷あいに、頼朝勢三百は陣を布いていた。背後は山、前は谷、右手はすぐ海。狭い。狭いのは分かっていたけれど、ここで三浦勢を待つよりほかになかった。その三浦が、増水した川に阻まれて来られないという。

 そして、谷ひとつ隔てた向こうに、火の海があった。

 大庭景親の軍勢、三千あまり。

 山の斜面を埋める篝火の数を、頼朝は数えるのをやめた。数えたところで、どうにもならない。十倍だ。


「佐殿。後ろの山にも火が見えまする」


 土肥実平(どいさねひら)が低く言った。背後の尾根にも、敵が回っている。伊東の勢だという。挟まれた。

 雨が篝火を叩き、火の粉が横に流れた。

 夜になって、戦が始まった。

 夜の戦だ。しかも、この雨だった。弓は役に立たない。弦は濡れ、火矢は消え、敵も味方も顔が見えない。狭い谷の中で、人と人とが、声と太刀の音だけを頼りにぶつかり合う。押し合いのような戦になった。

 三百と三千の差は、こういう戦だと、案外すぐには出ない。道が狭ければ、ぶつかる先頭の数は、どちらも同じだからだ。頼朝勢は夜通し押され、退き、また押し返した。

 でも、夜が明ければ終わる。それは、誰の目にも明らかだった。

 明け方近く、佐奈田与一(さなだのよいち)が討たれた。

 岡崎義実(おかざきよしざね)の嫡男で、まだ二十六の若者だった。十五騎ばかりで敵の先手に突っ込み、敵将と組み討って首を取り、二人目に組みついたところを、駆けつけた敵に討たれたという。雨で太刀が抜けなかったのだと、泣きながら戻ってきた郎党が言った。

 頼朝は、与一の父・岡崎義実が立ち尽くしているのを見た。六十を過ぎた老将は、雨の中で棒のように立っていた。

 わしに付いたばかりに――と頼朝は思った。

 その思いを、すぐに奥歯で噛み殺した。今、大将の自分が崩れれば、三百は三百のまま、全部死ぬ。


「退きます」


 頼朝は言った。


「山へ。散れるだけ散って、土肥の山へ」


 退き戦は、そのまま崩れ戦になった。

 三百は雨の山の中でちぎれちぎれになり、頼朝の周りには、いつのまにか数騎しか残っていなかった。土肥実平が先に立って、道なき斜面を引いて登る。下の谷から、敵の声が追ってくる。

 大庭の兵だ。

 始まりの夜なのか、終わりの夜なのか、頼朝にはまだ分からなかった。二十年待って、ようやく挙兵して、たった六日で潰れた男の、最後の夜か。それとも――。

 雨は、やまなかった。

 山の闇の中で、頼朝は、自分の息の音だけを聞いていた。


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