第6話:吉野の落日
――暦応元年/延元三年(一三三八年)八月〜翌年、京と吉野。
征夷大将軍。
義貞が泥田で死んだ年の八月、尊氏は、その位に就いた。
頼朝以来、武家の頭領にのみ許される位だ。これで、尊氏は、名実ともに、武士の世の頂きに立った。京に、新しい幕府が開かれた。後の世が、室町幕府と呼ぶ武家の政権の、始まりだった。
尊氏は、頂きに立った。
立って、なお、夜は眠れなかった。
南朝を支えた武力の柱は、すべて折れた。正成も、顕家も、義貞も、死んだ。吉野には、もう、まともな軍はない。残ったのは、神器を抱いた、老いた帝、ただ一人。
その一人が、消えない。
軍を失っても、後醍醐は、降らなかった。吉野の山の奥で、なおも、自らこそが正しい帝であると、宣言し続けていた。武力は尽きても、その意志だけは、尽きなかった。
翌、延元四年八月。
吉野で、後醍醐が、死んだ。
五十二歳。失意のうちの、病死だったという。
最期に、後醍醐は、こう言い遺したと伝わる。
「わが骨は、たとえ南の山の苔に埋もれようとも。……わが魂は、常に、北の空を――京を、望んでおる」
死してなお、京へ還ることを、諦めない。神器を抱いて山に消え、軍をすべて失い、それでも、最期の息で、京を睨む。異形の帝は、異形のまま、死んだ。
その報が、京に届いたとき。
尊氏は、泣いた、と伝わる。
不思議な男だった。尊氏は、後醍醐に背き、別の帝を立て、後醍醐の臣を討ち、後醍醐を吉野へ追い詰めた、当の張本人だ。その尊氏が、後醍醐の死を聞いて、人目もはばからず、泣いた。
尊氏の中で、後醍醐への崇敬は、最後まで、消えていなかった。
倒幕のはじめ、あの異形の帝の意志に惹かれた、あの気持ちが。背きながら、敵対しながら、討ちながら、それでも、尊氏は、後醍醐を敬い続けていた。武士でありながら、あの帝の、武士を超えた何かに、惹かれ続けていた。
尊氏は、後醍醐の霊を弔うため、寺を建てることにした。
天龍寺。敵であり続けた帝の、冥福のための寺だ。その最初の住職には、当代一の禅僧、夢窓疎石を招いた。その壮大な寺の建物の費用を工面するため、尊氏は、海の向こうの元へ、貿易の船まで出した。敵の魂を弔うために、これほどのことをする武士が、どこにいるか。
尊氏には、筋の通った理屈などなかった。
帝に背き、帝を敬う。武士に土地を与えて頂きに昇り、その頂きで寂しさに泣く。気前よくすべてを配り、内には空っぽの心を抱える。尊氏という男は、矛盾の塊だった。その矛盾のまま、天下を取り、その矛盾のまま、武家の世を、もう一度、開いた。
覇者は、問わなかった。
武士とは何か。その問いを、尊氏は、ついに、立てなかった。問わずとも、武士は集まり、天下は転がり込んだ。問う必要が、どこにあったか。
叛徒(はんと=そむいた者)は、問いに、殉じた。
義貞は、正成の死を引き受けて、退かずに死んだ。決めた一点に死ぬ――正成が命で示したその答えを、義貞もまた、命で示した。
問わなかった覇者が、武家の世を開き。
問いに殉じた叛徒は、泥田で果てた。
どちらが武士か――その問いを、覇者は立てず、叛徒は答えずに死んだ。問いだけが、二つに割れた天の下に、残された。
天下は二つに割れ、北朝と南朝の争いは、これから、なお五十年余りも続くことになる。
尊氏の開いた幕府も、安泰ではなかった。
政務を支える弟の直義と、戦を担う執事(しつじ=幕府の事務をとる役)の高師直。その二人が、すでに、目を合わせなくなっていた。尊氏の足元には、次の動乱の種が、蒔かれていた。
今はただ、天に二つの日が昇り、武士たちが、てんでに旗を選び、忠義という言葉が、無数の形に割れていた。
武士の世は、誰のものでもなくなり、誰のものにでもなりうる、長い長い乱世へと、入っていった。
第三章 覇者と叛徒——足利尊氏と新田義貞 ――完。




