第5話:藤島
――暦応元年/延元三年(一三三八年)閏七月、越前国藤島。
その死は、あまりに、呆気なかった。
越前で、義貞は、なお戦い続けていた。皇子を死なせ、援軍も乏しく、それでも、北陸の地で、足利方の城を、一つ、また一つと攻めていた。勝てる戦ではなかった。でも、退かぬと決めた以上、戦い続けるよりほかに、義貞のすることは、なかった。
閏七月、義貞は、藤島の城を攻めていた味方を、助けに向かった。
わずかな手勢を率いて、馬を急がせた。途中、燈明寺畷という、泥深い田の中の細道に、さしかかった。
そこで、足利方の一隊と、出くわした。
不意の遭遇戦だった。互いに、相手がそこにいると知らずに、ぶつかった。義貞の手勢は、五十騎ほど。足利方は、三百ほど。数で、劣った。
義貞は、泥田の中で、馬を返そうとした。
馬の脚が、泥に取られた。動けぬ義貞めがけて、足利方の雑兵が、矢を放った。無数の矢が、降った。その一本が、義貞の眉間を、貫いた。
新田義貞は、泥田の中で、馬から落ちた。
射た者は、自分が誰を射たのか、知らなかった。
「あれは、誰ぞ」
「知らぬ。……鎧が、よい鎧じゃ」
落ちた男の鎧の値打ちだけが、その場で、話に出た。
源氏の名門。鎌倉を落とした、倒幕の立役者の一人。湊川を生き延び、皇子を奉じて雪の北陸を転戦し、退かぬと決めて戦い続けた男の最期は――名のある敵との一騎討ちでも、城を枕にした壮絶な討死でもなかった。泥深い田の細道で、名も知らぬ雑兵の、流れ矢に近い一矢に、貫かれて、終わった。
湊川の正成の死が、半日の死闘の果ての、十六度の突撃の末だったのに比べて。
義貞の死は、ほんの、一瞬だった。
武士の死は、その者の生き方を映す、とは限らない。退かぬと決めた男も、最期は、泥の中で、呆気なく死ぬ。戦場とは、そういう場所だった。死は、立派な者にも、そうでない者にも、等しく、無造作に訪れた。
義貞の首は、足利方に取られた。
京へ送られ、さらし首にされた。倒幕第一の功臣の一人の首が、かつて自らが奪い返した京の、町なかに、晒された。
その首を、尊氏は、見たかどうか。
記録は、伝えない。
ただ、義貞の死をもって、南朝の、最も大きな武力の柱が、一本、折れた。北畠顕家は、すでに、その年の前半に死んでいた。楠木正成は、二年前に死んだ。南朝を支えた、三本の武力の柱――正成、顕家、義貞――が、すべて、地に倒れた。
残ったのは、吉野の山の、神器を抱いた帝、ただ一人だった。
義貞が死んだ、その同じ年。
尊氏は、京で、一つの位を、手にしていた。




