第4話:勝つ旗の下で
――建武三年〜延元年間(一三三〇年代後半)、関東・信濃。
その島津や伊達が、遠い土地で旗の色に悩んでいた頃。
足利のお膝元には、悩むまでもなく、勝者の側にいる家があった。
上杉憲顕。尊氏の母方の一族だ。足利の家は、代々、上杉から妻を迎えてきた。その縁の濃さゆえに、憲顕は、はじめから足利方の中心にいた。迷う必要も、賭ける必要もない。尊氏が立てば、上杉も立つ。憲顕は東国の経営を任され、鎌倉の府の傍らに座して、坂東の御家人の訴えを裁き、その土地の境を定めた。かつて皇族の将軍に従って京から下ってきた、あの若い公家の家が、いまや、東国の武士たちの暮らしの上に、座っていた。
信濃には、小笠原貞宗がいた。
甲斐源氏の流れを汲み、弓と馬の作法を家の誇りとする一族だ。貞宗は早くから尊氏に従い、その功によって、信濃一国の守護に任じられた。馬上から的を射る射芸の家が、一国を預かる守護の家へと、上っていく。貞宗は、戦のかたわら、武家の弓と馬の作法を、いよいよ整えた。的の前での立ち方、弦の引き絞り、馬の歩ませ方――その一つひとつに、寸分の決まりを定め、書に記していった。戦で人を殺すための技ではない。武士が武士であることを、所作の上で、目に見える形にする――そういう作法だった。
乱世に、そんなものが何の役に立つ。家中の者が、そう問うたことがある。
「役に立たぬ」
貞宗は、あっさりと認めた。
「弓の引き方一つで、勝てはせぬ。……だがな、この世が、いつまでも斬り合いで済むと思うか。斬り合いが終わったとき、武士は、何をもって武士と呼ばれる。そのときに要るものを、今、書き留めておくのよ」
二百五十年先の泰平を、この男が見通していたわけではない。ただ、乱世であればこそ、形を、残そうとした。鎌倉の昔、頼朝に弓と馬を教えたその家は、百五十年近くを経て、なお、武家の作法の家であり続けていた。
忠義という一つの言葉が、こんなにも、ばらばらの形をしている。
主君を自ら選ぶ時代とは、忠義が、一人ひとりの武士の手の中で、てんでに別の意味を持つ時代だった。鎌倉の昔、御恩と奉公という一本の糸で、武士は将軍に結ばれていた。その糸は、もう、ない。代わりにあるのは、無数の、選択だった。




