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刀を持たない朝 ―武士とはなにか、七百年の物語―  作者: ソリトん
第三章 覇者と叛徒——足利尊氏と新田義貞

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第3話:それぞれの旗

 ――建武三年〜延元年間(一三三〇年代後半)、九州・安芸・奥州・信濃・関東。

 天に二つの日が昇ったとき、諸国の武士は、選択を迫られた。

 北朝の尊氏につくか、南朝の後醍醐につくか。

 その選択は、武士にとって、忠義の問題であると同時に――いや、それ以上に、家の存亡の問題だった。選び方を一つ間違えれば、家が、土地が、根こそぎ消える。選択を迫られたのは、京の近くの武士だけではない。日の本の、端の端の家々もまた、それぞれの土地で、それぞれの旗を、選ばなければならなかった。

 九州の南、薩摩。

 桜島が、今日も灰を降らせる、南の果ての地である。京の争乱も、ここまでは、潮風と火山灰に薄められて届いた。

 島津貞久は、迷わなかった。

 鎌倉以来、この地に根を張って、百五十年。鎮西探題が滅びたとき、いち早く宮方に転じた島津だったが、尊氏が九州で再起し、多々良浜で大勝したのを見て、貞久は、ためらいなく足利方についた。

 節操がない、と謗る者もいた。

 家中の若い者が、一度、それを、面と向かって言ったことがある。旗を二度替えるのは、武士の恥ではないか、と。

 貞久は、灰の降る庭を見たまま、答えた。


「恥か」

「は」

「では聞くが、島津の家が絶えて、この地に一人も残らんようになったとき、その恥は、誰が覚えておる」


 若い者は、答えられなかった。


「覚えておる者がおらんのなら、恥は、無いのと同じじゃ。……家が残れば、恥も残る。恥が残るということは、家が残ったということよ」


 貞久は、それきり、この話をしなかった。

 九州は、中央から遠い。遠いということは、中央の勝者と結ぶよりほかに、家を保つ術がない、ということだった。近くには、菊池をはじめ、強い宮方の武士がいる。彼らと土地を争いながら、島津が生き残るには、京を制した者の威を借りるしかない。

 貞久にとって、忠義とは、家を四百年、五百年と続かせることだった。北朝か南朝かは、その手段に過ぎない。鎌倉から賜った南の地を、子に、孫に、伝えていく――それが、貞久の、ただ一つの忠義だった。貞久は、足利方として、九州の宮方と戦い続けた。



 中国、安芸(あき)。

 中国山地のひだに抱かれた、川と棚田の小さな土地である。海にも都にも遠く、目立つもののない山あいだった。

 毛利時親(もうりときちか)は、動かなかった。

 毛利は、大江広元の血を引く家である。鎌倉の昔、頼朝のそばで武士の世の骨組みを引いた、あの文官の子孫だった。広元から数えて、四代。文官の家は、いつしか、安芸の山あいの、吉田荘という小さな土地の領主になっていた。

 時親は、安芸吉田の地に、静かに根を下ろしつつあった。

 中央では、北と南が、争っている。でも、安芸の山の中の小さな国人にとって、その争いは、遠かった。時親は、どちらにも、深くは味方しなかった。北につきすぎず、南につきすぎず、ただ、吉田の土地を、固めることに、力を注いだ。

 大きな旗を、掲げない。

 目立たず、急がず、土地に根を張る。それが、文官の家が武士の家として生き延びる、唯一の道だった。時親は知らなかったけれど、その「天下を急がぬ」家風は、二百数十年の後、毛利の家を、思いもよらない高みへ運ぶ。



 奥州。

 一年の半ばを雪に閉ざされる、日の本の北の果てである。京から最も遠く、それゆえ、京の勝敗が最も遅れて届く土地だった。

 伊達行朝(だてゆきとも)は、南朝の旗を、掲げた。

 奥州の宮方の総大将は、北畠顕家。あの、湊川の前に陸奥から駆けつけ、尊氏を一度は京から叩き出した、若き貴公子の将である。行朝は、その顕家の下に、馳せ参じた。

 なぜ、南につくのか。

 奥州の伊達は、鎌倉以来、伊達郡に根を張ってきた家だ。北朝の尊氏につけば、家は安泰だったかもしれない。でも、行朝は、顕家とともに、南朝の旗の下で戦うことを選んだ。

 行朝にとって、顕家は、ただの旗印ではなかった。あの若い貴公子は、京の雅な暮らしを捨て、わざわざ北の果ての国府(こくふ=国の役所)まで下ってきて、雪国の武士たちと寝起きをともにした。

 大雪の晩のことを、行朝は、忘れずにいた。見回りから戻ると、若い卿は、囲炉裏の端で、奥州の絵図を膝に広げていた。京育ちの白い手が、あかぎれて、赤かった。


「行朝。この雪の下で、民は、何を食べて冬を越す」


 行朝は、答えた。蕨(わらび)の根を掘ること。干した魚を、囲炉裏で炙ること。それでも足りずに、春を待たずに死ぬ年寄りがいること。顕家は、頷きながら、絵図に、細かく筆を入れた。書き込んでいるのは、戦のことではなかった。雪の国の、飯のことだった。

 奥州の冬の寒さも、道の遠さも、民の飢えも、その身で知っている主だった。その主が南へ上るなら、行朝も上る。旗の色で決めたのではない――あの主と決めた、ただ、それだけだった。

 顕家が、再び京へ攻め上ることを決めたとき、行朝も、これに従った。奥州から、京へ。雪深い北の地から、はるばると、負けが濃い南朝のために、兵を率いて上る。それは、損得に合う選択では、なかった。

 行朝は、勝つために南についたのではなかった。

 顕家という主に、奥州武士の意地を、預けた。預けたものを、勝ち負けで、引っ込めはしない――その一点において、奥州の伊達もまた、武士だった。

 顕家の西上は、やがて、和泉の石津で潰える。顕家は、二十一の若さで、戦死する。それでも、伊達の家は、奥州に残った。北の地は、あまりに遠く、敗者をも、なお呑み込まずに、置いておいた。


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