第1話:二つの日
――建武三年(一三三六年)八月、京。
湊川で正成を討ってから、尊氏は、よく眠れなくなった。
京を制した。後醍醐は比叡の山へ逃れた。天下は、もう、自分の手の中にある。それなのに、夜、ふと目を覚ますと、湊川で返させた首のことが、瞼に浮かんだ。
ああいう武士は、もう出ない。
そう思うたびに、尊氏は、奇妙な寂しさに襲われた。自分が勝ったのは、ああいう武士が、もう流行らない世になったからだ。土地をくれる主に集まり、勝てぬとなれば旗を替える――その新しい武士の流れの、いちばん上手に、自分は乗った。乗って、勝った。勝った者が、なぜ、こんなに寂しいのか。
尊氏は、その問いを、考えなかった。
考えれば、足が止まる。勝者に、足を止める暇はなかった。
八月、尊氏は、新しい帝を立てた。
持明院統の、光明天皇。後醍醐とは別の血筋の帝だ。これで、京には、正しい帝がいることになる。比叡に逃れた後醍醐は、もはや、ただの山の人だ――そういう形を、尊氏は作った。
十一月、建武式目を定めた。
これからの武家の政の、骨組みだ。鎌倉に幕府を置くか、京に留まるか。問いを諸将に投げ、答えを集め、十七条にまとめた。難しい理屈ではない。倹約せよ。賄賂を禁ぜよ。政をもとに戻せ――。でも、その骨組みの底には、一つの太い柱があった。
武士に、土地を。
後醍醐が綸旨一枚で取り上げようとした土地を、尊氏は、武士に返す。働きには、土地で報いる。御恩と奉公の、あの古い仕組みを、もう一度、立て直す。鎌倉の世の、再来だ。
武士たちは、尊氏のもとへ、いよいよ集まった。
与える主が、ここにいる。土地をくれる主が。武士たちは、尊氏の気前の良さに惹かれ、その旗の下に、なだれ込んだ。尊氏は、来る者に、惜しみなく与えた。土地を、位を、信頼を。与えれば与えるほど、人は集まり、力は増した。
尊氏は、与えることで、頂きへ昇った。
武士が何を欲しているか――それを、尊氏は、考えるまでもなく、知っていた。自分が武士だからだ。武士は、土地が欲しい。与えてくれる主が欲しい。ならば、与えればよい。それ以上の問いを、尊氏は、立てなかった。
武士とは、何か。
その問いは、尊氏の前を、いつも素通りしていった。問わずとも、武士は集まる。問わずとも、天下は転がり込む。問う必要が、どこにあるのか。
でも、十二月。
比叡の山から、報せが来た。
後醍醐が、消えた。
山を抜け、ひそかに南へ――大和の、吉野の山中へ、逃れたという。しかも、ただ逃れたのではない。三種の神器を、抱いて。
尊氏は、その報を聞いて、しばらく動けなかった。
京には、尊氏が立てた光明天皇がいる。でも、後醍醐は、神器を持って吉野へ消えた。神器こそが帝の証――ならば、本物の帝は、吉野にいることになる。
天に、二つの日が、昇った。
京の帝と、吉野の帝。北の朝廷と、南の朝廷。
武士たちは、選ばなければならなくなった。どちらの帝が、正しいのか。どちらに仕えれば、自分の土地は安泰か。忠義を尽くすべき主君が、二つに、割れた。
尊氏は、夜の御所で、南の空を睨んだ。
吉野の灯は、消えない。あの異形の帝は、流されても、追われても、神器を抱いて、消えない。勝ったはずなのに、決着が、つかない。
ああいう帝も、もう出ない――尊氏は、ふと、湊川の首を思い出して、苦笑した。
異形の帝と、めったにいない忠臣。自分は、その両方を、敵に回したのだ。




