第3話:桜井
――建武三年(一三三六年)五月、摂津国桜井。
雨に、なりそうだった。
桜井の宿で、正成は、馬を停めた。
河内から、嫡男の正行が、見送りについてきていた。十一歳になる。初陣として父の供を許されたと思い込んで、朝から、いくらか昂っていた。
その正行を、正成は、宿の前に呼んだ。
「正行。ここから先は、来てはならぬ」
正行の顔が、こわばった。
「父上。なぜでございます。私も、湊川へ――」
「来てはならぬ」
正成は、繰り返した。声を荒げはしなかった。ただ、有無を言わせぬ静けさが、そこにあった。
「お前は、河内へ帰れ。帰って、待て」
「待て、とは……何を、待つのでございますか」
正成は、答えなかった。
答えの代わりに、しばらく、息子の顔を見ていた。十一歳の、まだ柔らかい輪郭。自分に似てきた、と思う。眼の、ものを真っ直ぐに見るところが、特に。
この子は、聡い。
聡いから、もう、薄々、気づいている。父が、戻らない戦に行こうとしていることに。気づいていて、それでも「初陣」と思い込もうとしている。その必死さが、正成には、痛かった。
だから、言うことにした。
誤魔化さず、子供扱いもせず、一人の武士に語るように。
「正行。よく聞け。父は、此度の戦で、死ぬ」
正行の唇が、震えた。でも、泣かなかった。泣くまいと、歯を食いしばっているのが分かった。
「勝てぬ戦だ。父は、勝てぬと知っている。知っていて、行く。……お前は、なぜだ、と思うであろう」
正行は、小さく、頷いた。
「武士とは、負けるとわかっていても、己が正しいと信じた主君のために死ねる者よ。勝ち負けではない。どこに命を置くか、それだけじゃ」
雨の匂いが、濃くなった。
正しいと信じた主君のために、と父は言った。信じた、と決めた日の父は、確かに信じていた。
「父は、帝のために死ぬのではない。帝が正しいかどうか、父には、もう分からぬ。申し上げた策は退けられた。父の眼から見れば、帝の戦は、間違うておる。……それでもな、正行。父は、間違うておると思う主君のために、死ぬのだ。なぜか、分かるか」
正行は、首を振った。
「父が、そう決めたからよ。仕えると、決めた。決めたものを、勝ち負けでなかったことにする者は、武士ではない。負けるから退く、間違うておるから去る――それは、損得で動く者のやり方だ。武士は、損得では動かぬ。己の決めた一点に、命を置く。置くと決めたら、退かぬ。それだけのことだ」
正成は、立ち上がった。
「お前は、生きよ。生きて、楠木の家を継げ。父が死んでも、戦は終わらぬ。お前の代に、まだ続く。そのときお前が、誰のために、どこで戦うかは、お前が決めよ。父のようにせよ、とは言わぬ。ただ――決めたら、退くな。それだけを、覚えておけ」
正行は、地に手をついた。
「……承りましてございます」
声は、震えていた。でも、言葉は、はっきりしていた。
正成は、その頭に、一度だけ手を置いた。それから、馬に乗った。
馬上から、振り返らなかった。振り返れば、心が、揺れる。揺らしてはならないものが、正成には、まだ残っていた。兵庫まで、それを、運ばなければならなかった。
宿の前に、正行が、ひとり、残された。
父の馬が、西へ、雨雲の下へ消えていくのを、正行は、いつまでも見ていた。やがて、最初の一粒が、頬に落ちた。雨か、別のものか、正行には、分からなかった。




