第7話:鎌倉へ
――建武二年(一三三五年)七月、京から鎌倉へ。
その報せは、東から来た。
信濃で、北条の残党が、兵を挙げた。
滅ぼされた高時の遺児、北条時行を担ぎ、もとの北条の家臣たちが集まり、瞬く間に大軍となって、鎌倉へ攻め上った。中先代の乱である。
新政の、鎌倉を治める役所は、脆かった。
守りを任されていたのは、尊氏の弟・直義だった。直義は、時行の軍に抗しきれず、鎌倉を捨てて西へ逃れた。逃れる前に、直義は、一つの始末をつけた。
鎌倉に閉じ込めていた護良親王を、殺したのである。
護良親王は、後醍醐の皇子であった。倒幕にあたって自ら兵を率い、武勇で知られたが、新政の後、尊氏と激しく対立し、謀反の疑いをかけられて鎌倉に閉じ込められていた。父・後醍醐は、わが子よりも尊氏を取り、護良を見捨てた形になっていた。その親王が、北条の残党に奪い返されることを恐れた直義の手で、暗い土牢の中で斬られた。
皇子が、武士の手で殺された。
その報が京に届く前に、もう一つの報が、後醍醐のもとに届いた。
足利尊氏が、帝の許しを待たず、東国へ発った、という報だ。
尊氏は、弟の危機を救い、乱を鎮めるべく、後醍醐に東へ下る許しを乞うていた。でも、後醍醐は、許さなかった。源氏の名門に大軍を預けて東国へ向かわせれば、第二の頼朝になりかねない――帝の直感は、正しかった。
正しい直感を、尊氏は、踏み越えた。
帝の許しを待たず、自らの判断で、京を発った。弟を救い、乱を鎮めるために。それは、武士として、当然の行いだった。主君の許しより、一族の危機が先に立つ――でも、その「当然」こそが、帝の世の理屈を、根底から裏切るものだった。
尊氏は、たちまち時行の軍を打ち破り、鎌倉を奪い返した。
そして――鎌倉に、留まった。
京へは、戻らなかった。
乱を鎮めた尊氏のもとに、東国の武士が、続々と集まった。倒幕の功に報われなかった者、新政に不満を抱く者、土地を求める者。かつて頼朝の旗の下に坂東武者が集ったように、今、武士たちは、尊氏の周りに集った。場所も、同じ、鎌倉だった。
尊氏は、自らの判断で、付き従った武士たちに、恩賞を与え始めた。
帝の綸旨によらず、自分の名で、土地を。
それは、もはや、帝の臣下の行いではなかった。武士の主の、行いだった。
尊氏は、後醍醐に願い出た。新田義貞を討たせていただきたい、と。義貞こそ新政を私物化する悪い臣下であり、これを除かねば天下は鎮まらぬ――その名目の裏で、尊氏が求めていたのは、武士の世を束ねる、武家の頭領の座だった。
後醍醐は、これを退けた。退けて、逆に、尊氏を討て、という命令を下した。
帝と、武士の頭領が、ここに、袂を分かった。
京の清涼殿で、後醍醐は、東の空を睨んでいた。
あれほど厚く遇した尊氏が、朕の名の一字を与えた尊氏が、背いた。なぜだ――帝には、それが、心底から理解できなかった。
武士に、名を与えた。位を与えた。倒幕第一の功臣として、誰よりも重んじた。それでもなお、足りないというのか。あの者どもは、いったい、何が欲しいのだ。
帝は、最後まで、それが分からなかった。
武士が欲しいものは、名でも位でもない。土地だった。そして、その土地を、迷いなく与えてくれる、武士自身の主だった。後醍醐は、武士を使った。でも、武士の主には、ついに、なれなかった。番人に田を預ける主のつもりでいた帝は、武士が、預けられる側ではなく、与えられる側に立つ主を求めていることを、ついに、見抜けなかった。
夢は、二年で、覚めた。
いや――夢から覚めぬのは、帝の方だったのかもしれない。
建武の新政は、なお続いていた。だが、それは、もう、終わりへ向かって続いているに過ぎなかった。東に、武家の頭領が立った。西に、それを認めぬ帝がいる。
天下は、再び、二つに割れようとしていた。
その割れ目に、いちばん深く踏み込む男は、いま、河内の山で、絵図を数えている。
第一章 建武の夢——後醍醐天皇の誤算 ――完。




