第4話:東勝寺
――元弘三年(一三三三年)五月、鎌倉。
京で六波羅が落ちたのと、ほぼ時を同じくして、東国でも、火の手が上がっていた。
新田義貞。
上野の源氏で、これも長く北条に従ってきた一族の当主だ。義貞は、河内の千早城を攻める軍に加わっていたけれど、陣を払って土地へ戻り、そこで挙兵した。鎌倉を、東から突く――同じ源氏の高氏が西で六波羅を落としたのと、まるで示し合わせたかのように、義貞は東で兵を挙げた。
義貞の軍は、膨れ上がりながら、鎌倉へ迫った。
鎌倉は、三方を山に囲まれ、前は海。攻めるに難く、守るに易い、武家の都だ。頼朝がこの地を選んだのも、その守りの堅さゆえだった。山を断ち割った七つの切り通しを固めれば、十倍の敵も寄せつけない――鎌倉は、ずっと、そう信じてきた。
その地の利が、このときばかりは、罠になった。
義貞の軍は、まず、切り通しに殺到した。でも、攻めるに難い地は、攻める側の屍も山と積む。化粧坂も、極楽寺坂も、寄せ手の死骸で埋まり、攻め口は血のぬかるみと化した。義貞は、幾日も、鎌倉の喉首に手をかけられずにいた。
潮目を変えたのは、海だった。
鎌倉の西の端、稲村ヶ崎。切り立った岬が海に落ち込み、波が岩を洗うその下を、人馬が通れるはずもなかった。でも、ある夜、潮が、ありえないほど引いた。岬の下に、白い砂浜が、忽然と現れたのだ。後の世は、義貞が黄金の太刀を海の神に捧げて潮を退かせた、と語り伝えた。本当のところは、ただ、潮の満ち引きを読み切った将がいた、というだけのことだっただろう。
義貞の軍は、その砂浜を、海沿いに駆け抜けた。
守りの薄い浜から、鎌倉へ、雪崩れ込んだ。
あとは、火だった。
由比ヶ浜から町へ、火がかけられた。若宮大路――かつて頼朝が、八幡の神から海へとまっすぐに引いた、あの一本の矢のような大路を、炎が舐めた。段葛の松が燃え、御家人の屋敷が、屋根を並べた質素な町並みが、火の粉を噴き上げて崩れていった。
逃げ惑う人々が、大路を、海へ、山へと走った。七つの切り通しは、どこも塞がっていた。逃げ道は、まだ火の来ていない方角しか、なかった。馬が嘶き、梁が落ち、井戸という井戸に、人が折り重なった。坂東の武士が、汗と血で築き上げてきた質素な都が、半日のうちに、火と人の悲鳴で埋まった。
五月二十二日。
北条の一門は、葛西ヶ谷の東勝寺に立て籠もった。
最後の得宗、北条高時。三十路の若い当主は、酒と田楽(でんがく=当時の芸能)に溺れ、政を顧みないと悪く言われた男だったけれど、この最期の日には、一族とともに、静かに座っていた。
外では、ときの声が、谷の口まで迫っていた。誰かが、酒を運ばせた。最後の盃が、無言のまま、座を一巡りした。高時は、一口だけ含んで、隣へ渡した。あれほど悪く言われた男の座る姿が、この日だけは、得宗の名に、釣り合っていた。
寺に火がかけられた。
高時は、自ら腹を切った。続いて、一門が、家臣が、次々に刃を腹に突き立てた。炎の中で、八百あまりの者が――と「太平記」は伝える――自害して果てた。血は堂の床を流れ、谷を伝って、海へ向かったという。
頼朝が開き、政子が守り、義時が血で固め、泰時が物差しを与えた、武家の都。
百五十年続いたその世が、一日で、終わった。
承久の年に「武士が朝廷を超えた」その同じ鎌倉が、今、朝廷を奉じる武士たちの手で、灰になった。武士が、武士の世を、滅ぼしたのだった。




