第3話:旗、翻る
――元弘三年(一三三三年)四〜五月、京から鎌倉へ。
足利高氏は、馬上で、長いあいだ黙っていた。
鎌倉の命を受け、大軍を率いて京へ向かう道中だ。背には、北条に仕えてきた長い歳月があった。前には、宮方を討てという命令があった。高氏は、源氏の名門でありながら、北条に従い、北条と縁を結び、その下で家を保ってきた。それが、武士の生き方だった。主は替わる。でも、仕える形は変えない。
でも、高氏の腹は、もう決まっていた。
千早の報を聞いたときから、決まっていた。鎌倉は、朽ちている。朽ちた木に、いつまでも寄りかかっていれば、共倒れになる。
それに――高氏には、もう一つ、別の思いがあった。
隠岐を脱し、船上山に旗を揚げた帝。あの異形の帝の意志に、高氏は、武士でありながら、抗いがたい何かを感じていた。崇め敬うと呼ぶには近すぎ、恐れと呼ぶには温かすぎる、奇妙な感情だった。
四月二十九日、丹波の篠村八幡。
高氏は、京へ向かう軍を、止めた。社の前に額づき、長いあいだ、動かなかった。従う将たちは、その背を、固唾を呑んで見ていた。鎌倉の命令は、宮方を討て、だ。でも、当主が額づいたまま動かない、その沈黙が、もう、別のことを告げていた。
高氏は、立ち上がり、振り返った。
「北条を、討つ」
短く、それだけ言った。どよめきが、軍を走った。長く北条に従い、北条から妻を迎え、その下で家を保ってきた足利が――その当主が、今、主に弓を引くと言う。主は替わる、でも仕える形は変えない。それが、武士の生き方だったはずだ。高氏は、今、その仕える形そのものを、裏返そうとしていた。
源氏の白旗が、八幡の社の前に、揚がった。
長く北条の赤に紛れていた源氏の正統が、ついに、本来の旗の色を、取り戻した。でも、高氏には、わかっていた。この旗を揚げた瞬間から、もう、後戻りはできない。北条に背いた者は、北条が朽ちる前に己が朽ちれば、ただの謀反人として消える。賭けだった。朽ちた木と、異形の帝と、己の名門の血――その三つに、高氏は、足利の家の命運を、賭けた。
高氏の軍は、そのまま京へ取って返し、六波羅へ攻め寄せた。
六波羅探題――承久の乱の後、北条が京を見張るために置いた、幕府の西の砦である。百十年、坂東の武家が千年の都を上から見下ろしてきた、その拠点が、源氏の軍に囲まれた。探題の北条の一族は、最後まで戦い、敗れて東へ落ち、近江の番場で、一族郎党四百あまりとともに、自害して果てた。
五月七日、六波羅は、落ちた。
武家が千年の都に据えてきた、西の眼が、潰された。足利高氏は、北条に背いてから、十日と経たぬうちに、武家のもう一つの都を、落としていた。




