第2話:千早
――元弘三年(一三三三年)二月、河内国千早城。
その男のことを、京の公家は「悪党」と呼んだ。
悪党といっても、悪人という意味ではない。荘園の決まりの外で、力で生きる者――年貢を奪い、関所を破り、誰の家来にもならずに武装する、新しい型の武士のことだ。河内の山に拠るその男、楠木正成も、その一人だった。
後醍醐が笠置で兵を挙げたとき、諸国の名のある武士は、ほとんど動かなかった。動いたのは、悪党と呼ばれる者たちだった。なかでも正成は、わずかな兵で赤坂に城を構え、幕府の大軍を翻弄した。一度は落ちた。でも、帝が隠岐へ流されてもなお、正成は再び立った。
元弘三年、正成は、金剛山の中腹に、千早という小城を築いた。
兵は、千に満たない。
そこへ、幕府は、数万――と称する大軍を差し向けた。京を制し、帝を流し、もはや天下に敵なしと驕る鎌倉の軍が、河内の一つの山城を踏み潰しに来た。
潰せなかった。
千早城は、山の地形そのものを城にしていた。攻め上る寄せ手に、正成は、大石を落とし、丸太を転がし、熱湯と汚物を浴びせた。功を焦って柵に取りついた者は、上から突き落とされた。攻め疲れて気を抜いた頃合いに、夜討ちをかけた。
藁で作った人形に具足を着せて並べ、寄せ手がそれを敵勢と見て矢を射尽くしたところへ、横合いから討って出た――そんな話まで、まことしやかに語られた。軍記の誇張も多分にあっただろう。でも、種を明かせば子供だましのような策に、天下の大軍が、来る日も来る日も翻弄されたのは、まぎれもない事実だった。
数万の軍が、千の城を、落とせない。
その報は、京を、そして諸国を、駆け巡った。
武士たちは、考え始めた。
――鎌倉は、もしや、思うていたほど強くないのではないか。
その疑いが、火種だった。一つの小城が落ちないという、ただそれだけの事実が、百五十年の鎌倉の威を、内側から食い破り始めた。
隠岐の後醍醐は、その報を、海の彼方で聞いた。
潮目が、変わった。帝は、それを正確に読んだ。そして、閏二月、ついに島を脱した。
漁船の底に身を隠し、夜の海を渡り、伯耆の名和の浦に着いた帝は、地侍の名和長年に迎えられ、船上山に拠った。流された帝が、自力で島を脱し、再び旗を揚げた――その一事が、潮目の変化を、誰の目にも明らかにした。
諸国の武士が、雪崩を打ち始めた。
昨日まで幕府方であった者が、今日は宮方(みやがた=天皇の側)の旗を掲げた。勝ち馬を見極める坂東以来の嗅覚が、今、一斉に同じ方角を向いた。
鎌倉は、そのことに、気づくのが遅かった。
幕府は、最後の切り札を、京へ送る決断をした。
足利高氏。
源氏の名門にして、鎌倉でも指折りの大族の当主だ。その高氏に、大軍を預けて京へ上らせ、西国の宮方を一掃させる――それが、鎌倉の打った、最後の手だった。
最後の手が、最初の裏切りになることを、鎌倉は、まだ知らなかった。




