第1話:異形の帝
――元弘元年(一三三一年)八月、山城国笠置山。
竹崎季長が蒙古の海を見てから、五十年が過ぎていた。
御恩のない戦を強いられた御家人たちの貧しさは、あれから止まなかった。土地は分け継がれるたびに痩せ、借金はかさみ、徳政令は一度きりで世を救えなかった。鎌倉では、北条の一門が得宗(とくそう=北条本家の当主)の名のもとに権力を握りしめ、霜月の騒動で安達の一族を滅ぼしてからは、もはや御家人の声は政に届かなくなっていた。仕組みは残っていた。でも、その仕組みを正しく回す者が、いなくなっていた。
百五十年、坂東の武士が築いてきた世が、内側から朽ちていた。
その朽ち木に、斧を打ち込もうとする男が、京にいた。
後醍醐天皇。
歳は四十四。即位して十数年になる帝は、しかし、ただ玉座に座る帝ではなかった。
夜、清涼殿の灯の下で、帝は自ら書を読んだ。宋の学問――王が自らじかに、天下を治める、その政の道理を説く書だ。臣下に任せるのではない。摂政や関白に委ねるのでもない。武家に至っては、論外だ。帝が、帝の手で、この国を治める。神代の昔がそうであったように――後醍醐は、本気で、それを取り戻すつもりだった。
臣下は、帝の眼を恐れた。
その眼には、常人には見えぬものが映っていた。三百年、藤原の摂政・関白に飼われ、百五十年、坂東の武家に見下されてきた朝廷の、失われた栄光。それを、この一代で取り戻す――そう信じて疑わぬ者の眼の光は、賢いとか愚かとかを超えて、ただ不気味だった。
幕府を倒す企ては、二度漏れた。
一度目は未遂に終わり、二度目の元弘元年、ついに兵を挙げるに至った。でも、京方の武力は、鎌倉の大軍の前に脆かった。後醍醐は三種の神器(じんぎ=天皇の位を示す宝物)を抱いて笠置山へ走り、山に拠って戦ったけれど、ひと月で落ちた。
捕らえられた帝の前に、六波羅の武士が居並んだ。
ふつう、帝は、武士の前に姿を晒したりはしない。まして、捕らわれた帝ならなおさらだ。でも、後醍醐は、縄を打たれこそしなかったが、まぎれもなく囚われの身でありながら、武士たちを見下ろして、平然としていた。
武士の一人が、帝の様子を、のちにこう語ったという。
あの御方は、負けたと思うておられぬ。捕らえたこちらが、見られておった、と。
翌元弘二年、後醍醐は隠岐の島へ流された。
かつて承久の年、北条が後鳥羽上皇を流した、あの島だ。百十年を経て、また一人の帝が、武家の手で海の彼方へ送られた。船が島に着いたとき、見張りの武士は、帝が少しも打ちひしがれていないことに、薄ら寒いものを覚えた。
帝は、波の音を聞きながら、ただ一言、漏らした。
「……武士とは、つくづく、奇妙なものよ」
近習が、おそるおそる、何が奇妙にございますか、と問うた。
「あの者どもは、刀を持っておる。兵を持っておる。京を制し、帝を流すほどの力を持っておる。それほどの力を持ちながら、なぜ、自ら帝にならぬ。なぜ、いつも誰かを担ぎ、誰かに仕える形を取る。……力があれば頂きに立てばよい。立てぬのは、立ってはならぬと、骨の髄まで思い込まされておるからよ」
帝は、海を見た。
「ならば、その思い込みを利してやろう。あの者どもは、土地の番人に過ぎぬ。番人は、主が要る。要るならば、その主に、朕(ちん=帝の自称)がなる。武家ではなく、この朕が。……見ておれ。朕は、必ず京へ還る」
近習は、言葉を失った。
流された帝が、流された当日に、還ることを語っている。しかも、その口ぶりには、願望のかけらもなかった。ただ、決まりきった先のことを述べる者の、静かな確信があった。
隠岐の冬は、寒かった。
だが、帝の意志は、海の寒さよりも、なお冷たく、硬かった。




