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刀を持たない朝 ―武士とはなにか、七百年の物語―  作者: ソリトん
第六章 蒙古襲来——御恩の底が抜けた日

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第4話:石垣と、風

 ――弘安四年(一二八一年)夏、筑前国博多。

 蒙古は、再び来た。

 今度の襲来は、文永の比ではなかった。

 高麗から渡る東路の軍に、ほろびた南宋の地から渡る江南の軍。あわせて十数万とも言われる、おびただしい数の軍勢が、四千を超える船に乗って、押し寄せた。海を埋める、という言葉すら、生ぬるい。博多の沖は、見渡すかぎり、異国の帆柱で、埋め尽くされた。世界の半ばを呑んだ蒙古が、その全力を、この島の、博多の浜一点へ、傾けてきた。

 でも、御家人たちは、七年前の、あの惨めな戦のままではなかった。

 博多の海岸には、長大な石の防塁(ぼうるい=石の防御壁)が、築かれていた。文永の苦い経験から、幕府が九州の御家人たちに命じて、海沿いに延々と積ませたものである。

 高さは、馬の背ほど。人が立てば、胸のあたりに来る。上の面は平らに均され、幅は、武者が二人すれ違えるほどあった。海に向いた側は切り立ち、陸に向いた側はゆるやかな坂になっていて、馬でそのまま駆け上がれる。その石垣が、博多湾を、弓のように縁取っていた。西の今津(いまづ)から東の香椎(かしい)まで、歩けば半日を超える長さである。

 石は、九州じゅうから運ばれた。

 国ごとに受け持ちの間口が割り当てられ、肥後は肥後の分を、筑前は筑前の分を積んだ。季長も、その石を積む人足の費用を、自分の貧しい郷から絞り出した。年貢の先取り、田の質入れ、それでも足りずに、妻の衣まで売った家があると聞いた。石垣は、九州の御家人の家財を、そのまま石に置き換えたようなものだった。

 その石垣が、効いた。

 蒙古は上陸しようとして、防塁に阻まれた。浜に取りつけば、石垣の上から矢を浴びる。馬を揚げられない。船から下ろした小舟が波打ち際で押し戻され、そこへ上から矢が降る。大軍は、上陸の足がかりをつかめぬまま、船の上で、いたずらに日を過ごした。

 今度は、武士たちも、ただ待ってはいなかった。

 季長は、再び前に出た。

 三十六になっていた。文永の浜から七年、歳は重ねても、季長の血は、まだ博多の海でたぎった。武士たちは小舟に乗り、夜の闇に紛れて、沖の大船へ漕ぎ寄せた。

 大船は、近づくほどに、高かった。

 闇の中に、黒い壁が立っている。それが船だと分かるのに、しばらくかかった。舷(ふなばた)は、小舟から見上げると、屋敷の屋根ほどの高さにあった。波が来るたび、その壁が上下し、小舟を吸い寄せては、突き放す。舟が壁に叩きつけられる音を、上の者に聞かれれば、それで終わりだった。

 鉤(かぎ)のついた縄を投げる。掛かれば、登る。

 登っている間は、刀は使えない。片手で縄を握り、片手で船板の継ぎ目を探る。上から槍が突き出されれば、避けるすべはない。落ちれば、鎧の重さで、海の底まで沈む。

 それでも、登った。

 甲板に躍り込み、斬り込んでは、また舟へ飛び降りる。火を放って逃げる者もあった。陸に揚げさせぬのなら、海の上の敵を、こちらから突きに行く。季長もまた、その小舟の一つに乗っていた。名もなき肥後の御家人が、世界帝国の大船の船べりへ、刀一本でよじ登っていった。

 にらみ合いは、二か月に及んだ。

 二か月である。

 石垣の上には、番の武者が、昼も夜も詰めた。雨が降れば、鎧の下まで濡れた。濡れた鎧は、乾かない。乾かぬ鎧を着たまま、次の日も、その次の日も、石の上に座って、海を見る。

 沖の帆柱は、減らなかった。

 朝、起きて数える。昨日と同じだけある。夕、また数える。やはり同じだけある。減らない敵を毎日数えるということが、これほど人を疲れさせるものだとは、誰も知らなかった。兵糧が細り、腹を下す者が出た。石垣の陰で、鎧も脱がずに眠る武者の顔は、どれも土の色をしていた。

 敵の船の上も、同じだったはずだ、と季長は後に思った。

 二か月、上陸できずに揺られ続けた十数万の兵が、あの船の中で、何を食い、どこで眠り、どんな顔をしていたのか。海の上で腐っていく水と、狭い船倉と、上陸の下知を待ち続ける日々。あちらもまた、疲れていた。

 夏が、過ぎようとしていた。

 そして、閏七月。

 嵐が、来た。

 博多の沖に居座り続けた四千の船団を、凄まじい台風が襲った。船は互いにぶつかり、砕け、裂けて、海へ沈んだ。十数万の大軍の大半が、一夜のうちに、海の底へ消えた。

 夜が明けた浜を、季長は歩いた。

 打ち上げられていたのは、船の板と、帆の切れ端と、屍だった。数えられる数ではなかった。異国の兵の顔が、砂に半ば埋まって、いくつも、こちらを向いていた。若い顔が多かった。名乗りもせず来て、名乗りもせず死んだ者たちだった。生き残って浜に取り残された敵を、武士たちは討ち取った。

 蒙古は、二度目も、海の彼方へ消えた。

 人々は、その風を、神風と呼んだ。

 神が、この国を守るために、吹かせた風だ、と。日の本は、神の国であり、神が異国の侵略から、これを救ったのだ――その思いは、後の世まで長く、この国の胸に刻まれていく。

 でも、博多の浜で、実際に血を流した、季長たち御家人の眼に、それは、どう映ったか。

 武士たちは、また戦った。石垣を築き、小舟で斬り込み、命を懸けた。でも、勝ちを神の手柄にされてしまえば――その手柄への御恩は、いったい、どこへ行くのか。げんに、戦のあと、幕府が手厚く報いたのは、戦の勝利を祈った寺社の方だった。神風を吹かせた神仏への礼として、寺には領地が与えられた。

 血を流した者には、土地がなく。

 風を起こしたとされる神には、寺の領地が与えられた。

 武士たちはまた、奪える土地のない戦を、自腹で戦ったのだった。防塁を築いた費用も、二度目の戦の費用も、すべて御家人の持ち出しだった。勝って、なお貧しくなる戦だった。

 やがて幕府は、徳政令(とくせいれい)という、借金を帳消しにし、奪われた田を元の御家人に返せという法さえ、出すことになる。でも、徳に背いて田を奪うのが世の習いになった世で、「徳政」という言葉だけが、空しく響くことになる。一度返された田は、また借金の形に取られ、銭貸しは御家人に銭を貸さなくなり、御家人は、いよいよ貧しくなっていく。

 季長は、年老いていく自分の田を見ながら、思った。

 あの博多の海で、誰よりも前に出た自分は、間違っていなかった。御恩を勝ち取ったのも、間違っていなかった。でも――御恩と奉公という、頼朝公の始めたあの仕組みは、もう、どこかが、根本から狂い始めている。

 奉公しても、御恩がない。

 土地のために戦うのに、戦っても土地が増えない。

 季長は、自分の戦った姿を、絵師に描かせて、後の世に残すことにした。誰よりも前に出た自分の姿を、子に、孫に、見せるために。――あるいは、いつか、自分のこの一念が報われなかったことを、誰かに知ってもらうために。

 その絵巻が、後の世に残る。

 蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)。名もなき御家人が、御恩と奉公の世の軋みを、命を懸けて記録した、一巻の絵である。

 鎌倉の屋台骨は、誰の耳にも聞こえぬ音で、軋み始めていた。

 頼朝が築き、政子が守り、泰時が物差しを与えた武士の世は、その頂きで、静かに、内側から痩せ始めていた。

 石橋山の雨から、百年あまりが、過ぎていた。

 武士は、土地のために生まれた。

 その土地が、もう、武士を養いきれなくなろうとしていた。





第六章 蒙古襲来——御恩の底が抜けた日 ――完。


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