第3話:訴えに上る
――建治元年(一二七五年)、肥後から鎌倉へ。
恩賞は、いつまで経っても、下りなかった。
季長は、待った。半年待ち、一年近く待った。でも、肥後の田舎の御家人のもとに、鎌倉からの使者が来ることは、なかった。
季長は、気づき始めていた。
今度の戦には、敵から奪った土地が、ない。
承久のときは、京方の土地が三千か所も取り上げられ、それが御恩として武士に分け与えられた。でも、蒙古は、海の向こうから来て、海の向こうへ去った。日の本の土地は、一寸も奪われず、一寸も増えなかった。
御恩と奉公は、土地が増え続けることを前提にした仕組みだった。
奉公すれば、御恩がある。御恩とは、土地である。その土地は、敵から奪うか、滅びた者から取り上げるしかない。だが、海の向こうの敵を追い払っても、奪える土地は、どこにもない。
戦っても、報われない戦が、初めて生まれたのだった。
季長は、決めた。
待っていても、御恩は来ない。ならば、自分で、取りに行く。
建治元年、竹崎季長は、鎌倉へ上った。残っていた馬と鞍を売り、その銭を路銀にした。武士が、馬を売ったのである。瀬戸内の船を乗り継ぎ、東海道を歩き、草鞋が幾足も潰れた。ひと月かけて鎌倉に着いたときには、路銀は、ほとんど尽きていた。名もなき御家人が、恩賞を求めて、直々に鎌倉へ訴え出る――前代未聞の、無謀とも言える旅だった。
鎌倉で、季長は門前払いに遭い続けた。
誰も、肥後の貧しい御家人の言い分など、取り合わなかった。それでも季長は粘り、ついに、恩賞を司る安達泰盛のもとへ、たどり着いた。
泰盛は、季長の話を聞いた。
博多の浜で、誰よりも前に出たこと。馬を射られ、傷を負い、それでも先駆けたこと。その証人がいること。――季長は、一語一語、必死に語った。これを認めてもらえなければ、肥後へ帰る顔がない。命を懸けた戦が、無かったことにされてしまう。
泰盛は、聞き終えて、頷いた。
「……分かった。お前の先駆けは、確かなものだ。沙汰しよう」
季長は、海東郷という肥後の土地の、地頭職を与えられた。
名もなき御家人が、鎌倉まで直接訴え出て、御恩を勝ち取った。それは、武士の一念が通った、美しい話のように聞こえる。
でも、季長は、帰り道で、別のものを見ていた。
肥後へ戻る道々、季長が目にしたのは、痩せていく御家人たちの姿だった。
武士の家は、子が生まれれば、土地を分けて継がせる。代を重ねるたびに、一人あたりの土地は、半分になり、また半分になっていく。承久から半世紀、最初は一国を分けた家が、今や一つの郷を、一つの村を、兄弟で分け合っていた。
土地は、増えない。
なのに、武士の数は、増えていく。
御家人たちは、戦の支度の費用に、借金を重ねていた。蒙古は、また来るという。来れば、また自前で武具を揃え、博多まで出向き、奪える土地もない戦をしなければならない。その費用に、御家人たちは、田を質に入れ、高い利息の銭を借りた。借りた銭は、返せない。返せなければ、田を取られる。
季長が、命を懸けて一つの地頭職を勝ち取っている間に、何十人もの御家人が、先祖伝来の田を、銭貸しに奪われていた。
季長自身も、その渦の中にいた。
苦労して得た海東郷の地頭職も、暮らしを楽にはしなかった。蒙古がまた来る、と聞けば、季長もまた、博多へ行かねばならない。馬を買い直し、郎党に武具を持たせ、その銭をどこからか工面する。あの先駆けを共にした五騎のうち、二人は、家の田を質に取られて、今は郎党を続けることもできずにいた。
季長は、鎌倉から持ち帰った下文を、時折、広げて眺めた。
紙である。一枚の、薄い紙だった。この一枚を得るために、ひと月かけて鎌倉まで上り、門前で幾日も待ち、頭を下げ続けた。それは、確かに、彼の一念が通った証だった。
だが、その紙は、痩せた郎党の腹を、膨らませはしなかった。
奉公しても、御恩がない。
まだ、言葉にはならなかった。ただ、そういう形をしたものが、季長の腹の底に、冷たく、沈んでいた。




