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刀を持たない朝 ―武士とはなにか、七百年の物語―  作者: ソリトん
第一章 挙兵——石橋山の雨

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第1話:流人の庭

 ――治承四年(一一八〇年)四月、伊豆国蛭ヶ小島(ひるがこじま)。

 その男の一日は、経を読むことから始まる。

 父のため、兄たちのため、そして平治の戦で死んだ源氏の郎党たちのため。流されて二十年、源頼朝は、一日も欠かさず経を読んできた。伊豆の蛭ヶ小島にある、湿った小さな屋敷の持仏堂(じぶつどう=仏をまつる部屋)で、三十を過ぎた流人が、誰に聞かせるでもなく経を上げる。ただそれだけの男――世間は、そう思っていた。

 そう思われていることを、頼朝は知っていた。

 知っていて、わざとそのままにしてきた。流人が利口に見えて、いいことなんて何ひとつない。

 持仏堂を出ると、庭先に安達盛長(あだちもりなが)が立っていた。流人暮らしの最初からそばにいる、数少ない家来だ。その盛長の後ろに、旅装の山伏(やまぶし)がひとり控えている。笠を取ったその顔を見て、頼朝はわずかに眉を動かした。

 叔父の、行家(ゆきいえ)だった。

 人払いをした奥の間で、行家は懐から油紙の包みを出した。


「以仁王様の令旨である。謹んで受けられよ」


 頼朝は両手で受け取り、押し頂いてから、開いた。

 平家を討て、と書いてあった。諸国の源氏は兵を挙げ、清盛入道(きよもりにゅうどう)の一党を討て――と。

 読み終えても、頼朝は、しばらく黙っていた。


「確かに、拝見しました」

「拝見しました、ではない。挙げるのか、挙げぬのか」

「叔父上は、これをほかの源氏にも」

「届けて回っておる。木曽の義仲(よしなか)にも、甲斐(かい)にも」


 頼朝は令旨を丁寧に巻き直した。


「お役目、ご苦労に存じます。……ここでのことは、どうか他言なさいませぬよう」


 行家は不満げに何か言いかけたけれど、頼朝が静かに頭を下げると、それ以上は言わずに去っていった。

 その夜、頼朝は令旨を読み返さなかった。文箱(ふばこ)の底に納め、いつもの時刻に眠った。

 動かなかったのだ。

 五月、以仁王と源頼政(みなもとのよりまさ)が宇治で敗れて死んだ、という知らせが伊豆に届いた。令旨の主は、もうこの世にいない。それ見たことか、と頼朝の周りの空気は言っていた。動かなくてよかったのだ、と。

 六月になると、別の知らせが届き始めた。

 都の平家が、令旨を受けた諸国の源氏を、まとめて始末するつもりらしい。名簿が作られている。伊豆の流人の名も、むろんそこにある――。

 知らせを運んでくるのは、京に伝手(つて)を持つ僧だったり、政子の父の北条時政(ほうじょうときまさ)だったりした。時政は伊豆の小さな豪族で、本当は頼朝の監視役のはずの男だ。でも、娘が押しかけるように頼朝の妻になってからは、監視役だか舅(しゅうと)だか、分からなくなっていた。

 その時政が、ある夜、ひどく難しい顔で言った。


「佐殿。目代が、兵を数えております」

「山木殿が」

「国中の家々に、人と馬の数を出せと。……あれは、土地の調べの顔をした下調べですぞ。狙いはおそらく、この館だ」


 頼朝は答えなかった。

 庭で虫が鳴いていた。

 動けば、死ぬかもしれない。流人の挙兵なんて、十のうち八か九は、三日で潰れる。でも、動かなければ――平家の名簿のほうが、先に来る。座って待つ首も、戦って落ちる首も、同じ首であることに変わりはない。違うのはただ一つ、あとに残る名の形だけだ。

 その夜遅く、政子が燭(ともしび)を持って入ってきた。

 頼朝の顔を見て、政子は何も訊かなかった。ただ燭を置き、向かいに座って、言った。


「あなたは、朽ちるおつもりですか」


 頼朝は妻の顔を見た。北条の娘は、伊豆の闇の中で、燭の火よりもはっきりした目をしていた。


「……朽ちる気なら、二十年前に朽ちている」

「では、決まっていますね」


 政子はそれだけ言うと、立って、寝所の支度を始めた。

 決まっている、と頼朝は胸の内で繰り返した。決まっているのだ、ずっと前から。決まっていないのは日取りだけで――その日取りも、もう向こうから歩いてくる。

 八月十五日は、三嶋大社(みしまたいしゃ)の祭りだ。

 国じゅうの目が祭りに向く夜。目代の館の人手も、薄くなる夜。

 頼朝は文箱の底から令旨を出し、初めて、燭の火に近づけて、もう一度読んだ。


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