↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
刀を持たない朝 ―武士とはなにか、七百年の物語―  作者: ソリトん
第一部 武士の誕生——御恩と奉公 / 序章 武士とは何か——問いの始まり

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/143

第3話:野営の問い

 ――治承四年(一一八〇年)八月二十三日の夜、相模国石橋山(いしばしやま)の手前。

 雨が近かった。

 昼間から空の底が重く、夕方には富士が雲に消えた。風が湿り、火の爆ぜる音だけが、妙に乾いて聞こえる。谷あいの野に、三千の軍勢の篝火(かがりび)が点々と連なり、それは弥六の目に、地に降りた星の川のように見えた。

 軍議は短かった。

 頼朝勢はすでに伊豆を出て、石橋山に陣を布いている。兵はおよそ三百。後詰め(ごづめ=援軍)を頼むはずの三浦(みうら)の軍勢は、川が増水して足止めされているという。


「三百だ。明日の朝までもつまい」


 景久は機嫌がよかった。十倍の兵で、逃げ道のない崖際の敵を叩く。負けようのない戦だった。諸将が引き上げたあとも、景親はひとり火のそばに残って、具足(ぐそく=よろい)の紐を確かめていた。

 負けようのない戦。

 それは分かっている。分かっているのに、胸の底に、小石のようなものが沈んでいた。頼朝は、三百で出てきた。勝ち目のない数で、どうして出てきたのか。流人のまま朽ちるくらいなら、とやけを起こしたのか。それとも、こちらに見えていない何かが、あの男には見えているのか。

 令旨は、ただの紙だ。でも、と景親は思う。坂東には、その紙に火を点けたがっている者が、多すぎる。国司に絞られ、目代に頭を押さえられ、所領(しょりょう=もっている土地)の安堵(あんど=持ち主と認めてもらうこと)一つに、何年も泣かされている武士たち。あの連中の不満が一つにまとまる旗を、頼朝という名は――


「殿」


 声に顔を上げると、弥六が立っていた。


「眠れぬか」

「はい」

「初陣の前はそんなものよ。火にあたれ」


 弥六は火を挟んで向かいに腰を下ろした。槍を抱えたまま、しばらく火を見ていたが、やがて思い切ったように顔を上げた。


「殿。ひとつだけ、教えてください」

「何だ」

「おれたちは……何のために、戦うのですか」


 景親は弥六の顔を見た。


「昼間に話したであろう」

「聞きました。主は替わる、土地は替わらぬ、と。でも、それなら」


 弥六の声は、自分でも止められないみたいに、続いた。


「明日戦って、おれが死んだら、おれは何のために死んだことになるのですか。平家のためですか。神宮のためですか。殿のためなら、おれは構いません。でも殿は、平家のために死ねと言われたら、死ぬのですか。兵というのは……いったい、何なのですか」


 言ってしまってから、弥六は青くなった。火の周りにいた古参の郎党たちが、ぎょっとしてこっちを見ている。

 景親は、すぐには答えなかった。

 火が、ぱちりと爆ぜた。湿った風が、煙を低く這わせる。

 やがて景親は、火の向こうの闇――稲の実る御厨がある、東の方角――に目をやって、口を開いた。


「武士とは、土地の番人よ。田を守り、一族を守り、その土地に骨を埋める者よ。主君? 主君は後からついてくる。土地が先じゃ」


 弥六は息を呑んで、主の顔を見つめた。


「平家のために死ぬのではない。神宮のためでもない。わしが明日戦うのは、大庭の田のためよ。この戦に勝てば、御厨は安泰だ。おまえの父の田も、おまえが溝を直したあの田も、誰にも踏ませずに済む。負ければ……いや、負けはせぬが、もし大庭が傾けば、あの田はよその者の田になる。それだけのことだ。都の旗印なぞ、田を守るための道具に過ぎぬ。源氏の白でも平家の赤でも、稲の実りには関わりがない」

「土地が、先……」

「そうよ。権五郎が田を切りひらいたから、大庭がある。大庭があるから、わしがいて、おまえがいる。主はその上に、あとから乗ってくるものだ。乗せてやる代わりに、土地を守る屋根になってもらう。屋根が破れたら、取り替える。……明日のあれはな、弥六。屋根の取り替えを企んだ流人を、今の屋根の側から叩く。ただそれだけの戦よ」


 弥六は長いあいだ黙っていた。それから、ぽつりと言った。


「分かったような気がします。……でも殿。もし、いつか」

「何だ」

「土地を守るために、今の屋根を取り替えたほうがよくなったら……そのときは、どうするのですか」


 景親は弥六を見た。

 若者は、自分が何を訊いたのか、分かっていない顔をしていた。ただ素直に、理屈の先をたどっただけの顔。でも景親は、胸の底の小石が、また少し重くなるのを感じた。

 石橋山の向こうに今いる男は、まさにそれを、坂東じゅうに囁いて回ろうとしているんじゃないか。――屋根を、取り替えないか、と。


「……寝ろ。明日は早い」


 景親はそれだけ言って、火に枝を足した。

 夜半から、風が出た。

 夜明け前、最初の一粒が、景親の頬に落ちた。見上げた空に星はなく、東の山の端(は)だけが、かろうじて白み始めている。陣のあちこちで人や馬の起きる音がして、具足の鳴る音が、雨の気配の中に広がっていった。

 三千余騎が、動き出す。


「出るぞ」


 景親は馬上から、短く下知(げち=命令)した。槍を担いだ弥六が、列の中で一度だけ、東の空を振り返るのが見えた。

 雨は、すぐそこまで来ていた。





序章 武士とは何か——問いの始まり ――完。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。