第3話:野営の問い
――治承四年(一一八〇年)八月二十三日の夜、相模国石橋山の手前。
雨が近かった。
昼間から空の底が重く、夕方には富士が雲に消えた。風が湿り、火の爆ぜる音だけが、妙に乾いて聞こえる。谷あいの野に、三千の軍勢の篝火が点々と連なり、それは弥六の目に、地に降りた星の川のように見えた。
軍議は短かった。
頼朝勢はすでに伊豆を出て、石橋山に陣を布いている。兵はおよそ三百。後詰め(ごづめ=援軍)を頼むはずの三浦の軍勢は、川が増水して足止めされているという。
「三百だ。明日の朝までもつまい」
景久は機嫌がよかった。十倍の兵で、逃げ道のない崖際の敵を叩く。負けようのない戦だった。諸将が引き上げたあとも、景親はひとり火のそばに残って、具足(ぐそく=よろい)の紐を確かめていた。
負けようのない戦。
それは分かっている。分かっているのに、胸の底に、小石のようなものが沈んでいた。頼朝は、三百で出てきた。勝ち目のない数で、どうして出てきたのか。流人のまま朽ちるくらいなら、とやけを起こしたのか。それとも、こちらに見えていない何かが、あの男には見えているのか。
令旨は、ただの紙だ。でも、と景親は思う。坂東には、その紙に火を点けたがっている者が、多すぎる。国司に絞られ、目代に頭を押さえられ、所領(しょりょう=もっている土地)の安堵(あんど=持ち主と認めてもらうこと)一つに、何年も泣かされている武士たち。あの連中の不満が一つにまとまる旗を、頼朝という名は――
「殿」
声に顔を上げると、弥六が立っていた。
「眠れぬか」
「はい」
「初陣の前はそんなものよ。火にあたれ」
弥六は火を挟んで向かいに腰を下ろした。槍を抱えたまま、しばらく火を見ていたが、やがて思い切ったように顔を上げた。
「殿。ひとつだけ、教えてください」
「何だ」
「おれたちは……何のために、戦うのですか」
景親は弥六の顔を見た。
「昼間に話したであろう」
「聞きました。主は替わる、土地は替わらぬ、と。でも、それなら」
弥六の声は、自分でも止められないみたいに、続いた。
「明日戦って、おれが死んだら、おれは何のために死んだことになるのですか。平家のためですか。神宮のためですか。殿のためなら、おれは構いません。でも殿は、平家のために死ねと言われたら、死ぬのですか。兵というのは……いったい、何なのですか」
言ってしまってから、弥六は青くなった。火の周りにいた古参の郎党たちが、ぎょっとしてこっちを見ている。
景親は、すぐには答えなかった。
火が、ぱちりと爆ぜた。湿った風が、煙を低く這わせる。
やがて景親は、火の向こうの闇――稲の実る御厨がある、東の方角――に目をやって、口を開いた。
「武士とは、土地の番人よ。田を守り、一族を守り、その土地に骨を埋める者よ。主君? 主君は後からついてくる。土地が先じゃ」
弥六は息を呑んで、主の顔を見つめた。
「平家のために死ぬのではない。神宮のためでもない。わしが明日戦うのは、大庭の田のためよ。この戦に勝てば、御厨は安泰だ。おまえの父の田も、おまえが溝を直したあの田も、誰にも踏ませずに済む。負ければ……いや、負けはせぬが、もし大庭が傾けば、あの田はよその者の田になる。それだけのことだ。都の旗印なぞ、田を守るための道具に過ぎぬ。源氏の白でも平家の赤でも、稲の実りには関わりがない」
「土地が、先……」
「そうよ。権五郎が田を切りひらいたから、大庭がある。大庭があるから、わしがいて、おまえがいる。主はその上に、あとから乗ってくるものだ。乗せてやる代わりに、土地を守る屋根になってもらう。屋根が破れたら、取り替える。……明日のあれはな、弥六。屋根の取り替えを企んだ流人を、今の屋根の側から叩く。ただそれだけの戦よ」
弥六は長いあいだ黙っていた。それから、ぽつりと言った。
「分かったような気がします。……でも殿。もし、いつか」
「何だ」
「土地を守るために、今の屋根を取り替えたほうがよくなったら……そのときは、どうするのですか」
景親は弥六を見た。
若者は、自分が何を訊いたのか、分かっていない顔をしていた。ただ素直に、理屈の先をたどっただけの顔。でも景親は、胸の底の小石が、また少し重くなるのを感じた。
石橋山の向こうに今いる男は、まさにそれを、坂東じゅうに囁いて回ろうとしているんじゃないか。――屋根を、取り替えないか、と。
「……寝ろ。明日は早い」
景親はそれだけ言って、火に枝を足した。
夜半から、風が出た。
夜明け前、最初の一粒が、景親の頬に落ちた。見上げた空に星はなく、東の山の端だけが、かろうじて白み始めている。陣のあちこちで人や馬の起きる音がして、具足の鳴る音が、雨の気配の中に広がっていった。
三千余騎が、動き出す。
「出るぞ」
景親は馬上から、短く下知(げち=命令)した。槍を担いだ弥六が、列の中で一度だけ、東の空を振り返るのが見えた。
雨は、すぐそこまで来ていた。
序章 武士とは何か——問いの始まり ――完。




