第5話:宝治の浜
――宝治元年(一二四七年)六月、鎌倉。
毛利季光は、馬に乗る支度をしていた。
大江広元の四男である。父が京から下ってきた文官であったのに対し、季光は坂東で生まれ、坂東で育ち、相模の毛利荘を領して、御家人として生きてきた。四十六になる。若き日は三代将軍実朝の近習を勤め、承久の乱では宇治川も渡った。頼朝の世を直に知る者が絶えた鎌倉で、あの乱を戦った世代すら、もう古株になりつつあった。
その朝、鎌倉が、割れようとしていた。
三浦泰村と、安達景盛。
三浦は、頼朝の挙兵に最初に応じた家である。義明が衣笠で死に、義澄が石橋山の負け戦を支え、義村が承久を渡り、その子の泰村が、いま一族を率いていた。坂東で、北条に次ぐ大きさを持つ、最後の名門だった。
安達は、北条の外戚である。景盛は高野の山に入って入道となっていたが、山を下りてきて、子や孫を焚きつけた。三浦を、今のうちに潰せ、と。
執権・北条時頼は、まだ二十一の若さだった。
止めようとしたのか、止めるふりをしたのか、それは、後の世にも分からない。ただ、六月五日の朝、安達の兵が動き、三浦の館へ、火矢が飛んだ。
季光の館へ、使いが走ってきた。
「三浦殿が、法華堂へ入られました」
法華堂。頼朝の墓所である。
季光は、それを聞いて、しばらく、動かなかった。
三浦泰村は、季光の妻の兄だった。義村の娘を、季光は妻に迎えている。二十年余り、連れ添った妻である。
だが、季光には、幕府の御家人としての立場があった。父・広元は、京から下って、この幕府の骨組みを引いた男である。その息子が、幕府に弓を引く。それは、父の引いた設計図の上に、自分の手で、墨を落とすことだった。
季光は、北条方へ加わるつもりで、馬を引き出させた。
その馬の口を、妻が押さえた。
「どちらへ」
「……御所へ参る」
「兄が、法華堂に籠っております」
妻は、静かに言った。低いが、揺るがぬ声だった。
「三浦の家は、頼朝公が挙げられたときから、損な側にばかり立ってまいりました。衣笠では、老いた当主が一人残って城を枕にし、石橋山の負け戦のあとも、この家だけは旗を降ろしませなんだ。……その三浦が、今日、滅びます」
「わしは、大江の家の者だ」
「大江の家の者が、妻の実家を見捨てて、なんの武士でございましょう」
季光は、妻の顔を見た。
「兄を見捨ててお家を保たれるなら、わたくしは、この場で舌を噛みます。武士の妻を、二十年余り、させておいて、最後に恥をかかせなさいますな」
季光は、答えなかった。
しばらくして、彼は、馬の向きを変えた。
法華堂の方へ。
――のちに、この日のことを語る者は、こう言った。毛利季光は、妻に諫められて三浦に付いた、と。あるいは、こうも言った。あの男は、初めから、そうするつもりだったのだ、と。どちらが本当だったのかは、分からない。ただ、季光は、子らを連れて、頼朝の墓所へ入った。
法華堂の中は、静かだった。
三浦泰村と、その弟・光村。一族の男たち。郎党たち。五百人に近い数が、頼朝の墓の前に、詰めていた。誰も、逃げようとはしなかった。外では、安達と北条の兵が、堂を、幾重にも囲んでいた。
光村は、柱を、太刀の柄で、殴りつけていた。
「なぜ、あのとき、討たなんだ」
弟は、兄に食ってかかった。前々から、北条を先に討つべしと説いていた男である。兄が、それを容れなかった。
「兄者が、待て、待てと申されるうちに、こうなった。三浦は、待って、滅ぶ」
「待って滅ぶなら、それでよい」
泰村は、そう答えたという。
「先に討てば、我らが逆賊よ。三浦は、頼朝公が挙げられたときから、一度も、逆賊にはなっておらぬ。……最後まで、ならぬ」
やがて、堂に火が入った。
三浦の一族と、その縁者は、頼朝の墓の前で、次々に腹を切った。討たれた者、焼けた者を合わせ、五百余人。頼朝の挙兵に最初に応じた家は、その頼朝の墓の前で、絶えた。
毛利季光も、子の多くとともに、そこで死んだ。
文官の家として始まった毛利の本家は、この日、ほとんど絶えた。
広元が引いた設計図の上で、最も遠くへ動いた駒が島津なら、最も鎌倉の近くで折れた駒が、この毛利だった。父の作った仕組みが、その息子を、頼朝の墓の前で殺した。
わずかに、この戦に加わらなかった子・経光だけが、生き残った。
越後の佐橋荘にいて、鎌倉の騒ぎに間に合わなかったのである。間に合わなかったから、生きた。経光の血は、越後の片隅と、安芸の山あいの小さな荘園に、細々と繋がれていく。
その安芸の荘の名を、吉田荘といった。
三百年の眠りにつく、小さな種だった。




